秦宜禄

From Wikipedia, the free encyclopedia

秦 宜禄[1](しん ぎろく、? - 199年)は、中国後漢時代末期の武将。并州雲中郡(現在の内モンゴル自治区フフホト市)の人。子は秦朗

出生 生年不詳
并州雲中郡
死去 199年(建安4年)
拼音 Qín Yílù
別名 秦誼[1]
概要 秦宜禄, 後漢 銍県長 ...
秦宜禄
後漢
銍県長
出生 生年不詳
并州雲中郡
死去 199年(建安4年)
拼音 Qín Yílù
別名 秦誼[1]
主君 呂布曹操
テンプレートを表示
閉じる

事跡

呂布配下。建安3年(198年)、曹操が下邳城に立て籠もる呂布を包囲すると、秦宜禄は呂布の使者として袁術の下へ救援要請に赴いたが[2]、その先で袁術によって漢の宗室の娘と結婚させられた[3]。なお、秦宜禄には杜氏という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後には関羽に見とれられ、最終的には曹操の側室となった[4]

秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降り、沛郡県長に任命された。建安4年(199年)に劉備が小沛で曹操に反旗を翻すと、その腹心張飛が秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した。秦宜禄も最初は受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛に殺害されてしまった。

子の秦朗は生母が曹操の側室となり、その養子となった。後にの権臣となった。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

注釈

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI