穎才新誌
明治時代に発行された日本の雑誌
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概説
横浜毎日新聞の創立者である陽其二によって1877年に創刊した雑誌であり、堀越修一郎らが編集者として参加した[1][2]。廃刊時期は未詳だが、1901年に『穎才』と改題する頃までが本誌の刊行期間とされている[1][3]。
毎週土曜日発行、菊倍判4頁の新聞のような形態で始まるが、後に頁数は増加していき、1897年から16頁構成となる[1][4]。創刊当初の定価は8厘[4]。小学校や中学校の生徒、教員による投稿作の掲載が主であり、各種作文や漢詩、短歌、俳句、新体詩などが掲載された[1][4]。創刊間もなく毎週の発行部数は1万部に達し、当時の日本で発行部数が最も多い雑誌だった[1]。同時期に創刊した『学庭拾芳録』が学校単位で優秀作文をとりまとめていたのに対し、本誌は児童による自由投稿を受け付けており、これが人気を呼んだとされ、投稿者の中には文学界や政財界で大成した者も少なくない[1][2]。
読者層
創刊当初は学習院や跡見女学校などに通う上層階級の児童を中心に読まれ、次第に中層階級にまで広がっていく[4][5]。作文教育の教材としての側面も持ち、本誌に投稿作が掲載されることは名誉なこととされ、1日に50通あまりの投稿が寄せられた[4][6]。投稿者の年齢は12歳前後が多く、1877年時点では女子投稿者37%を占めていたが、1879年に男女別学が明確化され中学校から女子生徒がいなくなると女子読者は急減し、男子読者が中心となる[4]。
明治初期に小学生だった層には広く知られた雑誌であり、内田魯庵の回想でも本誌が語られる[1]。尾崎紅葉、山田美妙、田山花袋などの明治の文豪たちが少年期に常連投稿者だったことから、木村毅は本誌を明治文学の幼稚園と評している[1]。
評価
日本の児童雑誌の先駆けではあるが、本誌は児童からの投稿作品の掲載が主であり、読み物主体の本格的な児童雑誌としては1888年創刊の『少年園』が嚆矢とされ、このような後続雑誌が誕生していくにつれ、本誌は徐々に人気を落としていく[1][2]。また、本誌創刊の頃は、児童向けの読み物、児童文学の概念も明確化しておらず、妾、姦通、女郎買い、母親殺しなどの性的な事柄や残酷な事柄が扱われていたことも忌避される要因になったのではないかとも考えられている[4]。
また、読者間の投稿競争が過熱するにつれ、美麗さに重きを置いた文語体による作文も流行し、作文教育にも影響を与えた[6][7]。その文体は美文調・穎才新誌的とも評され、言文一致運動論者からの批判対象ともなった[6][7]。