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李賢 (唐)

651-684, 中国・唐の皇太子。字は明允。諡号は章懐太子。学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させた。 From Wikipedia, the free encyclopedia

李 賢(り けん)は、中国・唐の皇太子。高宗の六男で、母は武則天。字は明允。諡号は章懐太子(しょうかいたいし)。中宗、睿宗の同母兄である。

続柄 高宗第六皇子
武則天第二皇子
全名 李賢
称号 章懐太子(諡号)
身位 王→皇太子→庶人
概要 李賢, 続柄 ...
李賢
続柄 高宗第六皇子
武則天第二皇子

全名 李賢
称号 章懐太子(諡号)
身位 王→皇太子→庶人
出生 永徽5年12月17日[1]
(655年1月29日)
死去 文明元年2月27日[2]
(684年3月18日)
巴州
埋葬 章懐太子墓
配偶者 房氏(房先忠の娘)
子女 李光順
李守礼
李守義
父親 高宗
母親 武則天
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概要

5歳で潞王に封じられ、6歳で雍州牧・岐州刺史を兼ねる。11歳で沛王・揚州都督・左武衛大将軍に任じられる。上元2年(675年)、同母兄・李弘の謎の死によって皇太子となる。幼い頃より学問に通じ、儀鳳元年(676年)には学者たちとともに『後漢書』の注釈を完成させた。

ところが武則天は、正諫大夫の明崇儼に命じて廃太子と弟の栄王顕(のちの中宗)の立太子を奏上させ、武后は賢に対して皇太子を弟に譲るように迫った。それから間もない調露元年(679年)、武則天が皇太子と対立した明崇儼を強盗に襲わせて殺害するという事件を起こし、それを名目に武后は正諌大夫と対立した皇太子の屋敷を捜索し、屋敷内から武器と甲冑数百を発見したという理由で謀反による罪過と刑罰を高宗に迫り、賢を皇太子から廃して庶人へ落とした。永淳2年(683年)、賢は巴州に流された。

翌文明元年(684年)に武后は、左金吾将軍丘神勣を巴州に派遣して賢を幽閉し、迫って自殺させた。ところが、丘神勣が帰還すると、武后はこれを罪に陥れて畳州刺史とし、改めて賢を雍王に封じた。

次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して「章懐」の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である次男李守礼(中国語版)を邠王に封じた(長男李光順は先に誅殺され、三男李守義も病死していた)。

妃および子孫

  • 正妃:房太子妃
  • 側室:張良娣

李守礼には多くの子(したがって李賢の孫)があったが、唐の歴史上重要な人物に以下があった[3]。

章懐太子墓

神龍2年(706年)、李賢は乾陵に陪葬された。李賢の墓は1971年7月から1972年2月にかけて発掘調査され、章懐太子墓として知られるようになった[4]。

脚注

参考文献

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