翻訳研究
人文科学の一分野。翻訳という行為の理論・実践・歴史を扱う。通訳研究(interpretation studies)を包括する場合もある
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翻訳研究(ほんやくけんきゅう、英: Translation studies)は、翻訳・通訳・ローカライゼーションの理論・記述・応用の体系的研究を扱う学術的インタディシプリン(interdiscipline)である。学際的な性質上、翻訳研究は翻訳を支える様々な研究分野から多くを借用している。それらには比較文学・計算機科学・歴史学・言語学・文献学・哲学・記号論・術語学などが含まれる。
「翻訳研究」という用語は、アムステルダムを拠点とするアメリカの学者ジェームズ・S・ホームズが1972年の論文「翻訳研究の名称と性質」("The name and nature of translation studies")で造語したものであり、この論文はこの学問分野の基礎的な声明と見なされている。英語圏では「翻訳学」(translatology)という用語が使われることもある(さらに稀に "traductology" とも呼ばれる)。この学問分野に対応するフランス語の用語は通常 traductologie(フランス翻訳学会 Société Française de Traductologie の場合など)である。アメリカでは「翻訳・通訳研究」(translation and interpreting studies)という用語が好まれる(アメリカ翻訳・通訳研究学会など)が、ヨーロッパの伝統では翻訳研究の中に通訳が含まれる(欧州翻訳学会など)。
歴史
初期の研究
歴史的に、翻訳研究は長い間「規範的」(どのように翻訳すべきかを翻訳者に指示する)であり、規範的でない翻訳についての議論は翻訳に関するものとはそもそも考えられなかった。翻訳研究の歴史家が初期の西洋思想を辿る際、例えば、著名な弁論家キケロがギリシア語からラテン語への翻訳を通じて弁論能力を磨いた方法についての言及が出発点として最も多く取り上げられる。これはヒエロニムスが最終的に意味優先翻訳と呼ぶことになるものの初期の記述である。数世紀前にヘロドトスがエジプトの通訳者を記述的に語った歴史はは通常翻訳研究とは見なされない——おそらく翻訳者に翻訳の仕方を指示していないためである。中国では、漢代における仏典の翻訳を契機として翻訳方法についての議論が始まった。
学術分野への呼びかけ
1958年、モスクワで開催された第4回スラブ学者会議において、翻訳への言語学的アプローチと文学的アプローチの間の議論が、翻訳のあらゆる形式を、言語学にも文学研究にも完全には属さない形で研究できる独立した科学を持つことが最善ではないかという提案にまで達した。[1] 比較文学においては、1960年代にアイオワ大学やプリンストン大学などアメリカのいくつかの大学で翻訳ワークショップが推進された。[2]
1950年代から1960年代にかけて、翻訳の体系的な言語学的研究が登場し始めた。1958年、フランスの言語学者ジャン=ポール・ヴィネーとジャン・ダルベルネがフランス語と英語の対照比較を行った。[3] 1964年にはユージン・ナイダが『翻訳の科学を目指して』(Toward a Science of Translating)を出版した。これはハリスの変形生成文法にある程度影響を受けた聖書翻訳のマニュアルであった。[4] 1965年、J・C・カットフォードは言語学的観点から翻訳の理論を構築した。[5] 1960年代から1970年代前半にかけて、チェコの学者イジー・レヴィーとスロバキアの学者アントン・ポポヴィチ、フランティシェク・ミコが文学翻訳の文体論に取り組んだ。[6]
文学翻訳研究へのこれらの初期の取り組みは、1972年のコペンハーゲンでの第3回応用言語学国際会議においてジェームズ・S・ホームズの論文にまとめられた。この論文「翻訳研究の名称と性質」で、ホームズは独立した学問分野の確立を求め、分野の分類を提案した。ホームズの提案の視覚的な「地図」は後にギデオン・トゥーリがその1995年の著書『記述的翻訳研究とその先』(Descriptive Translation Studies and beyond)で提示した。[7]
1990年代以前、翻訳研究者たちは特定の思想学派を形成する傾向があり、特に規範的・記述的・スコポス理論のパラダイム内でそれが顕著であった。1990年代の「文化的転回」以降、学問分野は互いに方法論を借用しながら並行して進む個別の研究分野に分かれる傾向にある。
思想学派
研究レベルの主要な思想学派は、論争の的となってきた主要な理論的概念を中心に形成されてきた。
等価
1950年代から1960年代にかけて、翻訳研究における議論は「等価」をいかに達成するかに関するものが多かった。「等価」という用語は異なる思想学派に対応する2つの異なる意味を持っていた。ロシアの伝統では「等価」は通常、言語形式間の一対一の対応、または認可された専門用語や語句のペアを指し、「等価」は「代替」の範囲と対立していた。しかしシャルル・バイイを引き継いだヴィネーとダルベルネのフランスの伝統では「等価」は等しい機能的価値の達成であり、一般的に形式の「変化」を必要とした。1965年のカットフォードの等価概念はフランスの伝統に沿ったものだった。1970年代の過程で、ロシアの理論家たちは言語変換から「結果として生じる」ものとしての等価という広い意味を採用した。
ほぼ同時期に、『翻訳の解釈理論』[8]が言語化解除された意味という概念を翻訳研究に導入し、単語の対応と意味的等価の区別を示し、単語や句の辞書的定義(単語対応)と与えられた文脈におけるテキストまたはその断片の意味(意味等価)の違いを明らかにした。
記述的翻訳研究
記述的翻訳研究は、ホームズの地図の一部を埋める実証的記述の学問分野を構築することを目指している。科学的方法論が文化的産物に適用できるという考えは、20世紀初頭にロシア形式主義者によって発展させられ、比較文学の様々な研究者によって再評価されていた。それが文学翻訳に適用された。この応用の一部は多元システム理論(Even-Zohar 1990[9])であり、これは翻訳文学を受信側または目標言語の文学システムのサブシステムとして捉える。ギデオン・トゥーリはその理論を、研究目的のために翻訳を「目標文化の事実」として考慮する必要性に基づかせている。「操作」[10]と「パトロネージ」[11]という概念も文学翻訳との関連で発展した。
スコポス理論
翻訳理論の別の発見は、1984年にヨーロッパで2冊のドイツ語の書籍が出版されたことに遡ることができる。カタリナ・ライスとハンス・フェアメールによる『翻訳の一般理論の基礎』、そしてユスタ・ホルツ=メンテリによる『翻訳行為』(Translatorisches Handeln)である。[12][13] これらから生まれたのがスコポス理論であり、等価を優先する代わりに翻訳によって実現されるべき目的を優先する。
文化的翻訳
文化的転回は学問の発展においてさらなる一歩を意味した。それはスーザン・バスネットとアンドレ・ルフェーヴルの『翻訳——歴史——文化』でスケッチされ、翻訳研究と他の地域研究・概念(ジェンダー研究・カニバリズム・ポストコロニアル理論・文化研究など)との交流によって急速に展開された。[14]
「文化的翻訳」の概念は主にホミ・バーバのサルマン・ラシュディ読解、特に『文化の場所』から生まれた。[15] 文化的翻訳は文化研究において、特定の文化における変容過程(言語的であるかどうかにかかわらず)を表すために使われる概念である。[16] この概念は、文化における変容と交流の性質を分析する道具またはメタファーとして言語翻訳を使用する。
研究分野
翻訳の歴史
翻訳の歴史は、職業的・社会的集団としての翻訳者の歴史、および文化の発展・相互作用・消滅の指標としての翻訳の歴史に関わる。翻訳史のいくつかの原則は、リーヴェン・デュルスト[17]とパイム[18]によって提案されている。翻訳史における主要なプロジェクトには『英語文学翻訳のオックスフォード史』[19]や『フランス語翻訳の歴史』[20]などがある。
翻訳の社会学
翻訳の社会学には、翻訳者が何者であるか、その労働形態は何か(職場研究)、そして翻訳のデータが言語間の思想の移動について何を示せるかについての研究が含まれる。言語自体が翻訳の移転における行為者として理解され得る。翻訳の社会学はしたがって、象徴資本が行為者間で移転されるブルデューのフィールド理論に関連している。[21]
ポストコロニアル翻訳研究
ポストコロニアル研究は、宗主国と旧植民地の間、または複雑な旧植民地内の翻訳を考察する。[22] これらの研究は翻訳が根本的に分離した文化・言語の間で行われるという前提を根本的に問い直す。
ジェンダー研究
ジェンダー研究は翻訳者のセクシュアリティ[23]、翻訳する文書のジェンダー化された性質[24]、用いられる可能性のあるジェンダー化された翻訳プロセス、そして翻訳を描述するジェンダー化された比喩を考察する。先駆的な研究は、ルイーゼ・フォン・フロトウ、シェリー・サイモン、キース・ハーヴェイによるものである。[25]
倫理
倫理の分野では、アントワーヌ・ベルマンとローレンス・ヴェヌーティのエッセイが多く議論されてきた。両者はいくつかの点で異なるが、翻訳する際の原語と目標言語・文化の差異を強調するという考えでは一致している。両者とも「文化的他者が……その他性をいかに最もよく保持できるか」に関心を持っている。[26] より最近の研究では、学者たちがエマニュエル・レヴィナスの倫理と主体性についての哲学的著作をこの問題に応用している。[27]
映像翻訳研究
映像翻訳研究(AVT)は映画・テレビ・ビデオゲームや演劇など音声および/または映像の場における翻訳に関わる。[28] この分野の研究の共通点は、翻訳が複数の記号論的システムに対して行われることであり、翻訳されるテキスト(いわゆるポリ記号論的テキスト)[29]は書かれた言語や話された言語だけでなく音声や映像によっても伝えられるメッセージを持つ。[30] 主に研究される翻訳方式は字幕・吹き替え・ボイスオーバー、そしてオペラや演劇のためのサータイトリングである。[31]
非専門家翻訳
非専門家翻訳は、通常インターネットによって可能となった形で、職業的翻訳者ではない翻訳者によって行われる翻訳活動を指す。[32] これらの実践はインターネットの普及とともに急増した。ボランティア翻訳の取り組みが世界中で生まれ、様々な種類の文書やマルチメディア製品の翻訳を扱っている。
最も人気のある非専門家翻訳の実践にはファンサブ・ファンダブ・ROMハック・ビデオゲームのファン翻訳・スキャンレーションなどがある。2008年からFacebookはクラウドソーシングを利用してユーザーにウェブサイトを翻訳させており、TEDカンファレンスはTEDトーカーの字幕を作成するためのボランティア向けオープン翻訳プロジェクト「TED Translators」[33]を設立した。
ローカライゼーション
ローカライゼーション研究は、現代の言語産業が技術的テキストを言語間で翻訳・適応(「ローカライズ」)し、特定の「ロケール」(言語の変種と様々な文化的パラメータによって定義される目標地域)に合わせる方法に関わる。ローカライゼーションは通常ソフトウェア・製品文書・ウェブサイト・ビデオゲームに関わり、技術的要素が重要である。
通訳研究
通訳研究は翻訳研究の姉妹学問とよく称される。これは2つの学問の間の類似性——一つの言語から別の言語への考えの移転——によるものである。翻訳研究の理論的枠組みに強く影響を受けながらも、通訳研究は常に活動の実践的・教育的側面に集中してきた。[34][35]
比喩
比喩的な用法は、慣用的表現と自然なスタイルのバランスをとろうとする翻訳者に課題をもたらすことがある。翻訳は隠れた比喩を露わにすることもある。翻訳の研究は「イメージと文化の関係について新たな洞察を明らかにすることができる」。[36]
将来の展望
翻訳研究は大学レベルでの翻訳スクールとコースの成長とともに発展してきた。1995年の60か国の調査では、大学レベルで翻訳または通訳のコースを提供する機関が250あることが明らかになった。[37] 2013年には同データベースに501の翻訳者訓練機関が登録されていた。[38]
学際性は新たなパラダイムの創造を可能にしてきたが、翻訳研究そのものの断片化を招いた可能性もある。[39]
翻訳研究は研究分野を広げる傾向を示しており、この傾向は今後も続くと予想される。これは特に翻案研究、言語内翻訳、記号システム間の翻訳(例えばイメージからテキストへ、テキストから音楽へ)、そしてローマン・ヤコブソンの著作『翻訳の言語学的側面について』(On Linguistic Aspects of Translation)で示唆されているような、すべての解釈の形式としてのひいてはすべての理解の形式としての翻訳への拡張に関わる。
関連項目
注釈
参考文献
- Alvstad, Cecilia. 2010. Children's literature and translation. In: Handbook of Translation Studies 1: 22-27.
- Even-Zohar, Itamar, 1990. Polysystem Studies. Poetics Today special issue, Durham: Duke University Press, 11:1.
- Baker, Mona ed. (2001). Routledge Encyclopedia of Translation Studies. New York and London: Routledge.
- Bassnett, Susan (1980/1991/2002). Translation Studies. New York and London: Routledge.
- Benjamin, Walter (1923). "The Task of the Translator".
- Berman, Antoine (1991). La traduction et la lettre ou l'auberge du lointain. Paris: Seuil.
- Munday, Jeremy (2008). Introducing Translation Studies. London and New York: Routledge.
- Pym, Anthony (2010/2014). Exploring Translation Theories. London: Routledge.
- Steiner, George (1975). After Babel. Oxford and New York: Oxford University Press.
- Venuti, Lawrence (2008). The Translator's Invisibility: A History of Translation (2nd ed.). Abingdon: Routledge.
関連文献
日本語
- 柳父章(1928-2018)の一連の研究(明治日本の漢訳語彙に関する研究)
- 島田謹二『翻訳文学』至文堂、1951年
- 丸山眞男・加藤周一(校注)『翻訳の思想』日本近代思想大系15、岩波書店、1991年(福沢諭吉や中江兆民の思想)
- 丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、1998年
- 亀井俊介(編)『近代日本の翻訳文化』叢書比較文学比較文化3、中央公論社、1994年
- 川本皓嗣・井上健(編)『翻訳の方法』東京大学出版会、1997年
- 酒井直樹『日本思想という問題 翻訳と主体』岩波書店、1997年
- 芳賀徹(編)『翻訳と日本文化』国際文化交流推進協会、2000年
- 原卓也・西永良成(編)『翻訳百年 外国文学と日本の近代』大修館書店、2000年
- 藤濤文子『翻訳行為と異文化間コミュニケーション 機能主義的翻訳理論の諸相』松籟社、2007年
- 佐藤=ロスベアグ・ナナ(編)『トランスレーション・スタディーズ』みすず書房、2011年
- 鳥飼玖美子(編)『よくわかる翻訳通訳学』ミネルヴァ書房、2013年
- 船山徹『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』岩波書店、2013年(仏典漢訳に関して現代の翻訳研究に言及[40])
- 長沼美香子『訳された近代 文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版局、2017年
- 佐藤=ロスベアグ・ナナ(編)『学問としての翻訳 『季刊翻訳』『翻訳の世界』とその時代』みすず書房、2020年
日本語以外・訳書
- ジョージ・スタイナー(著)亀山健吉(訳)『バベルの後に 言葉と翻訳の諸相』上下、法政大学出版局、1999年(上)/2009年(下)
- ミカエル・ウスティノフ(著)服部 雄一郎 (訳) 『翻訳—その歴史・理論・展望 (文庫クセジュ)』、白水社、2008年
- ジェレミー・マンデイ(著)鳥飼玖美子(監訳)『翻訳学入門』みすず書房、2009年
- アンソニー・ピム(Anthony Pym)(著)武田珂代子 (訳) 『翻訳理論の探求』みすず書房、2010年
- カタリーナ・ライス(Katharina Reiss)、ハンス・ヨーゼフ・フェアメーア(Hans Vermeer)(著)藤濤文子(監訳)『スコポス理論とテクストタイプ別翻訳理論』晃洋書房、2019年
- マシュー・レイノルズ(著)秋草俊一郎 (訳) 『翻訳 訳すことのストラテジー』白水社、2019年、ISBN 978-4560096857
- Baker, Mona ed., Routledge Encyclopedia of Translation Studies, New York & London: Routledge, 2001.
- モナ・ベイカー、ガブリエラ・サルダーニャ(編)藤濤文子(監訳)『翻訳研究のキーワード』研究社、2013年
- Bassnett, Susan, Translation Studies, Routledge, 1980; revised 1991; 2002.
- Gentzler, Edwin, Contemporary Translation Theories, 2nd Revised Edition, Multilingual Matters, 2001.
- Venuti, Lawrence ed., Rethinking Translation: Discourse, Subjectivity, Ideology, Routledge, 1992.
- Venuti, Lawrence, The Translator's Invisibility: a History of Translation, London & New York: Routledge, 1995.
- Meschonnic, Henri, Poétique du traduir, Lagrasse: Verdier, 1999.
- Meschonnic, Henri, Éthique et politique du traduire, Lagrasse: Verdier, 2007.
- Berman, Antoine, L'épreuve de l'étranger, Paris: Gallimard, 1984.