耶律捏児哥
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捏児哥はモンゴル帝国建国の功臣の耶律阿海の息子で、兄弟には耶律忙古台・耶律綿思哥らがいた。長兄の耶律忙古台が子なく早世したことにより、捏児哥はチンギス・カンより虎符と右丞の地位を授けられた。
このころ、遼東方面ではモンゴル・金戦争の狭間で契丹人の耶律留哥や女真人の蒲鮮万奴らが半独立的な勢力を築いており、これらを帰順させるためにモンゴル帝国左翼軍のムカリが遼西地方を平定していた[1][2]。1215年(貞祐3年/乙亥)、遼東の中心地である東京遼陽府を得た蒲鮮万奴は自立して国号を大真と定めたが(東真国)、1216年(貞祐4年/丙子)にムカリ軍の圧迫を受け、息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴルに差し出し投降の意を示した[3]。この時、投降した蒲鮮万奴を監視するべく、行省として遼東に派遣されたのが捏児哥であった[3]。
しかし、蒲鮮万奴は本心からモンゴルに屈服する気はなく、『元史』太祖本紀によると同年末には「既にしてまた叛し、東夏王を僭称した」という[4][5][6]。この時、捏児哥は家族とともに蒲鮮万奴に殺されてしまった[7]。忙古台は子なくして早世し、捏児哥は家族とともに殺されたため、阿海の家系は綿思哥の子孫のみが残ることとなった[8]。