耶律買住

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耶律 買住(やりつ バイジュ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

バイジュは宗室の末裔で、モンゴル帝国草創期の功臣であるトガン(禿花)の息子であった[1]。当初、トガンの地位は長男のジュゲ(朱哥)、さらにその息子のバオトン(宝童)が継承していたが、バオトンが病となったことからバイジュが地位を譲られたとされる。

バイジュが耶律禿花の当主であったのは第4代皇帝モンケ・カアンの治世のことで、バイジュはモンケ・カアンに対して「今西川下流の諸城を平定するに当たり、まず根本の地たる成都府を攻略すべきです。私自身を成都府攻略に行かせるようご命令ください」と進言したとされる[2]。これによってバイジュは四川方面軍の司令官に抜擢されたようで、『国朝文類』巻62所収の神道碑には、モンケ・カアンの弟で東アジア方面の経略を担当するクビライ1255年乙卯)に夾谷忙古帯に対してバイジュとともに四川を征服するよう命じたとの記録がある[2]。また、漢人将軍の劉恩は「太傅耶律公」に従って四川方面での戦闘で功績を挙げたとの記録があるが、この「太傅耶律公」も時期的にバイジュを指すとみられる[2]

バイジュらによる四川方面への出兵は雲南方面に駐屯しているウリヤンカダイ軍と連動しており、『元史』ウリヤンカダイ伝によるとモンゴル軍は南北から四川を挟撃し、最後には嘉定に終結する予定であったようである[3]。しかし嘉定にて予想外の苦戦を強いられたバイジュは1256年丙辰)ころに戦死したようで、その息子の忽林帯が跡を継ぐこととなった[3]

子孫

忽林帯

『元史』耶律禿花伝によると、バイジュの没後に地位を継承し、「成都府を立てた」とされる[3]。『元史』バヤン・バートル伝や劉黒馬伝には1257年丁巳)に成都府を拠点とした旨の記載があるため、1257年前にはバイジュの地位を継承していたようである[3]

その後の動向は不明であるが、『中堂事記』の1261年(中統2年)時の記事に、クビライが「バイジュは早くに亡くなり、その息子のミンガンダル(明安歹児)は幼いが、建国の功臣の子孫であることを考慮して襲爵することを許す」と述べたとの記録がある。この記録によって、1260年前後に忽林帯も早世してしまっていたとわかる[4]

明安歹児

上述の『中堂事記』によると1261年(中統2年)時点で13歳であったとされ、軍務に耐えられる年齢ではなかった[3]。そこでトガン一族の総領の地位はジュゲの息子達に移り、百家奴・禿満答児らが地位を継承した。ジュゲから百家奴に至るまでの歴代総領は、開祖のトガンに与えられた「太傅・総領イェケ=ノヤン(也可那延)」の称号を代々継承していたという[5]

桓州耶律家

脚注

参考文献

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