耶律阿海
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阿海の祖父は金朝に仕えて「桓州尹(西北路招討司の都監)[1]」に任じられた人物で、金の世宗の治世に金朝の西北国境=モンゴル高原方面の守備を担当していた[2][3]。父の脱迭児もまた尚書奏事官の地位に就いており、阿海・禿花兄弟は金朝の西北国境(桓州)を拠点とする、金朝末期の高官の家に生まれ育った[4]。『元史』の列伝によると、阿海は騎射に優れ、漢語・モンゴル語・テュルク語など諸国の言語に通じていたという[5]。
ある年、阿海が金朝の使者としてケレイトのオン・カンのもとを訪れた際、当時ケレイトと同盟を結んでいたチンギス・カンと面識を持つ[4]。この時、阿海は「奢侈に流れた金国はいずれ滅びるでしょう」と進言し、この言にチンギス・カンが喜ぶと、翌年に弟の耶律禿花を質子(トルカク)に差し出して(禿花はケシクに入り、親衛隊(ケシクテイ)としてチンギス・カンに近侍した。質子とは形式の上であり、実質的には兄弟が揃ってチンギス・カンに仕えたことになる)チンギス・カンに仕官した[4]。以後、阿海はチンギス・カンの参謀として従軍し、戦陣においては常にチンギス・カンの左右にあったという[6]。
1202年(壬戌)、ケレイトにカラ・カルジトの戦いで敗れたチンギス・カン一行がモンゴル高原北方に退避した際に共にバルジュナ湖の濁水をすすった19人の功臣には、阿海と禿花兄弟も含まれている[7]。チンギス・カンがオン・カンを破ってモンゴル高原の大部分を統一した後、金朝朝廷は阿海が戻らないことを訝しみ、その家族を拘留したが、阿海は意に介せずチンギス・カンの覇業を支えた。このことを知ったチンギス・カンは貴臣の娘を妻として与え、阿海の忠誠に報いたという。1203年(癸亥)冬には西夏遠征に従軍し、功績を挙げている[8]。
1206年(丙寅)にモンゴル高原を統一したチンギス・カンがモンゴル帝国を建国した後は、漢南(金朝)への侵攻に従事するようになった。金朝討伐戦が始まると、阿海・禿花兄弟は金朝治下の契丹族を内応させ、現在のドロン・ノール付近にあった金朝の官牧(国営牧場)からの軍馬奪取及び契丹族のモンゴルへの帰順に貢献した。1211年(辛未)には両軍の最大の激戦となった野狐嶺の戦いにも加わっている。1213年(癸酉)にモンゴル軍は宣徳・徳興を攻略し、遂に華北平原に本格的に進出したが、この時阿海はチンギス・カンに無闇な殺戮をやめるよう進言したという[9]。
また、1214年の金朝の宣宗による開封遷都の際に契丹族・タングート族等の混成による騎兵部隊の乣軍が将のチョダに率いられて反乱を起こし中都を包囲した時に、石抹明安らとともに中都攻略を進言した。チンギス・カンは史天沢を主将とする、阿海・禿花・石抹明安らが補佐をする契丹族が主力の軍を攻略戦に送り込むことを決断、中都は10カ月の包囲の後、1215年に中都留守の完顔福興の自害により陥落した(中都の戦い)。この時帰服した同族の耶律楚材をチンギス・カンに推挙した。
以上の金朝出兵の功績により、阿海は太師・行中書省事の地位を、禿花は太傅・濮国公の地位を、石抹明安は太保・邵国公の地位を、それぞれ拝命した[10]。その後、禿花は東方に留まってムカリを補佐するよう命じられ、逆に阿海は1219年よりモンゴル帝国の西征に従い、ブハラ・サマルカンド攻略に功績があった。サマルカンド落城後に留守を任され、ホラズムの占領地を委任されて軍民の慰撫にあたり、任地で病を得て没した。享年73。元朝が成立した後の1273年に忠武公に追封された[11]。『長春真人西遊記』には、1222年に丘長春(丘処機)がチンギス・カンに会見した際に阿海が通訳を務めたことが記される。