応安7年/文中3年(1374年)9月、了俊は先月に福童原で菊池勢に勝利したことに乗じて、八丁島に陣を敷いた。八丁島の探題方の圧力は大きく、懐良親王は高良山から撤退せざるをえなかった。11月には、了俊は筑後黒木城を攻め、さらに南へと進み谷川に入る。また、同月には城村城に攻勢をかけ、さらに大戸山関に布陣する。
菊池方に大きく圧迫を加えた了俊は、そのまま降伏勧告を出すも菊池方はこれを一蹴。九州探題方は、城村近くの日岡にまで進軍し、ここに陣を構えた。
永和元年/天授元年(1375年)4月に、今川了俊率いる九州探題軍が山鹿の日岡に陣取ったことに危機感を抱いた賀々丸は、阿蘇氏に対して支援を要請する。当時阿蘇氏は北朝方と南朝方に分かれており、そのうち南朝方の阿蘇惟武が菊池氏に協力した。懐良親王も名和氏や宇土氏に援軍を要請しており、その結果、南朝方は肥後一帯の諸勢力を結集させることに成功した。
賀々丸らは、7月12日頃、台城に布陣して探題方と対峙した。同地は菊池本城を防衛する要地であり、この地を奪われれば菊池氏本拠まで攻め込まれる危険性があり、何としても守り抜く必要があった。一方の了俊方も台城を攻めとる重要性を周知しており、島津氏久、大友氏時や少弐冬資に援護を頼んだ。了俊の要請に対し、島津氏久・大友氏時は参陣したものの、少弐冬資は自身の領地である筑前に九州探題が本拠を置いたことなどから探題方と軋轢があり、参陣しなかった。これにたいして、了俊は島津氏に冬資の説得をさせ、冬資を味方させることに成功した。しかし宴の席で、冬資は暗殺される(水島の変)[3]。筑前での少弐氏の影響を弱め、同時に自身に従わない冬資を排除することに成功した了俊だったが、彼と冬資の間を取り持った島津氏久は面目を無くし、領国に無断で帰還した[4]。これをきっかけとして探題方の軍勢には動揺が走り、離脱する武将も現れ始める。
これを好機とした南朝軍勢は、台城から出陣し、水島を攻撃した。北朝軍はさらに統率を失い、激戦のすえ、9月8日、遂に了俊は水島から撤退することとなった。台城の下を流れる矢取川の地名は、川に落ちた矢を下流で菊池方が集めて、それを以て戦ったことに由来するとされる[5]。
こうして態勢を立て直すことに成功した菊池氏は、反転攻勢を仕掛け、永和2年/天授2年(1376年)頃には肥前まで攻め入ることとなった。
水島からは退却せざるを得なかった了俊だが、冬資の甥を筑前守護に認めつつ、筑前国での影響力を高めることに成功した。また、九州の有力大名との関係再構築に手間取るも、大内義弘の支援を得つつ、島津氏との関係回復にも努める。永和2年/天授2年(1376年)では、島津氏攻撃のため子の今川満範を以て日向・薩摩・大隅へと進軍して小山城を攻め落とし、禰寝氏や肥後相良氏、入来院氏といった九州南部の国人衆を帰服させるなどした[6]。これによって、島津氏攻めは停滞したものの優勢となる。一方の菊池勢は、勢力圏を奪還するべく筑後・肥前に攻め入っていた。懐良親王より征西将軍を継いだ良成を推戴し、さらに了俊に対抗するため、少弐氏や島津氏と同盟を結び、連携につとめた。了俊も吉川氏や大内氏の援護を取り付けて軍勢をととのえ、南朝軍を迎撃する姿勢を見せる。
永和3年/天授3年(1377年)1月、肥前国蜷打で今川・菊池両軍が衝突。千布でも合戦が展開され、激闘が繰り広げられた。しかし了俊は北朝方の大軍を集結させており、菊池勢ら南朝方を圧倒。結果として九州探題の大勝に終わった。南朝方は、賀々丸の重要な補佐役であった菊池武安や菊池武義、さらに友好関係にあった阿蘇惟武が戦死する大打撃を受け、賀々丸らはかろうじて虎口を脱する有様であった[7]。
この敗戦は、九州南朝方の衰退を引き起こす決定打となった。合戦によって菊池氏は肥後に撤退し、了俊はこれを追って肥後に再度侵攻する。
| 託麻原の戦い |
| 戦争:南北朝の戦い |
| 年月日:永和4年/天授4年(1378年)9月 |
| 場所:肥後託麻原 |
| 結果:九州探題方の敗退、菊池氏ら南朝方勢力の勝利 |
| 交戦勢力 |
| 南朝(征西府) |
北朝(九州探題) |
| 指導者・指揮官 |
菊池武朝(賀々丸・武興) 良成親王など |
今川了俊 少弐貞頼 大友親世など |
| 戦力 |
| 征西府3500騎余 |
九州探題勢20000騎 |
| 損害 |
| 一族精鋭数十人の戦死、菊池武朝の負傷 |
不明 |
| Template:Campaignbox 征西府の戦い |
|
肥前から撤退する菊池勢を追って、了俊ら九州探題軍は肥後へと突入する。一方、5月には賀々丸が元服を果たし、武興(のち武朝)と名を改める。6月、了俊は志々岐へ攻め入った。8月の臼間荘における戦いでは、稙田宮が戦死するなど、今川方の攻勢は続く。さらに了俊は隈本城を攻略し、菊池氏領に大きな圧迫を加えた。永和4年/天授4年(1378年)9月になって、再度九州探題は侵攻を開始、隈本城周辺を奪取して、藤崎台に布陣する。武興はこれを迎撃するため、数の上では大きく劣るものの出撃した。
9月29日未明、武興は部隊を三隊に分け、健軍社・保田窪・渡鹿の三か所に配置した。自身は保田窪方面から進撃を開始し、了俊を迎え撃った[8]。
了俊は西方から進軍して菊池勢と激突する。合戦は熾烈を極め、武興が負傷し、菊池氏の「一族精鋭数十人」が戦死するほどの接戦が展開される[9]。了俊は武興を追い詰めたが、中途で参戦した健軍社からの軍勢による攻撃を受け、さらに渡鹿村からの攻勢もあって劣勢に陥った[8]。
探題方の軍勢は、各地から集まった軍ということもあって連携や統率に乏しかったため次第に圧倒され始めた。態勢を立て直すため、了俊は撤退を決意し、この合戦が菊池氏の九州探題に対する最後の勝利となった。
しかし、一度は北朝の攻勢を押し戻すことに成功したが、これが戦況を大きく覆したわけではなく、了俊は優勢を保ち、間もなく再度の侵攻を仕掛けた。
菊池軍の一隊が陣を張った健軍社。良成親王はここから今川勢に攻撃を行ったともいわれる。
託麻原の戦いでは撤退したものの、勢力を温存した今川了俊は、康暦元年/天授5年(1379年)には軍勢を立て直して玉名より肥後へと侵攻する。6月、今川頼泰は肥後へと急速に侵攻し、瞬く間に菊池方の城を陥落させた[10]。
8月には平尾城を攻め、亀尾城を攻略した今川方は、翌年には菊池氏への路次封鎖を行い、物資を欠乏させようと目論む。阿蘇惟村に対しても、菊池氏攻めへの協力を促した[11]。兵糧攻めを行って武朝を苦しめ、徐々に肥後は了俊の優勢が築かれていく。
永徳元年/弘和元年(1381年)、4月、木野城が攻略される。さらに、5月には菊野城が攻略され、間もなく6月には守山城が今川方の攻撃にさらされ、菊池氏領は完膚なきまでに了俊の手により制圧される。
6月18日、了俊は軍団を伴って菊池武朝の籠る守山城を包囲した。この戦役には、今川頼泰や義範、深堀時久、安富直安、橘公安などの北朝方の有力武将が集まり、武朝を猛攻した。一方の武朝は、守山城に籠っていた良成親王を染土城へと脱出させ、迎撃の構えをとるが、勢いに乗る九州探題方の攻撃を支えきることは出来なかった。すでに兵糧も少なくなっていたため、武朝は守山城を捨てて退却した。これにより、菊池氏の主城・守山城は陥落。さらに、了俊は良成親王を追って染土城へと軍勢を進めたが、風雨に乗じて良成は城を脱出した。武朝・良成はともに逃亡し、これによって了俊は肥後菊池氏領をほとんど制圧した。
武朝は良成親王をともなって肥後中部から逃れ、「たけの御所」あるいは「宇土御所」に征西府の根拠を構えて態勢の回復をはかった。しかし地盤は安定せず、永徳2年/弘和2年(1382年)には、北朝にあくまで抵抗する武朝を排斥する動きが菊池家中にみられた。
これは武朝によって一度は鎮圧されたが、この動きは間もなく盛り返し、吉野でも和平派が台頭していたため、武朝や良成は南朝勢力内での立場があやういものとなった。さらに南朝からの勅使は武朝排斥派の主張を受け入れるまでに至り、これに怒った武朝は吉野朝廷に対して「菊池武朝申状」を送り、菊池家の朝廷に対する代々の忠誠と、自身の奮戦を述べ、その正当性を主張した。
こうして幾分か南朝方としての地位を保った武朝だが、劣勢は変わらず、今川了俊は益城郡や八代郡へと兵を繰り出して肥後南方を平定しようと試みていた。これに対し、菊池方は相良前頼を内応させて対抗する。前頼に球磨郡および芦北荘を与えることを確約して寝返らせ[12]、これによって了俊は優勢な状況から一転、窮地に立たされ、肥後平定は難航することとなった。
さらに、島津氏も今川方に対する合戦を有利に進め、九州南部から探題方勢力を駆逐することに成功した。このように、北朝に対して頑健な抵抗を続けていたが、明応元年/元中7年(1390年)になって了俊有利の情勢が到来する。
高田御所跡。
同年の9月、了俊は川尻城や宇土御所を一挙に急襲する。こうして武朝や良成親王を八代まで逃亡させ、さらに両者を庇護した名和顕興を討伐した。翌年には名和館が陥落し、さらに八丁嶽も北朝方に収まり、明応2年/元中8年(1391年)7月には八代郡全域を今川方が平定。こうして良成親王も北朝との講和に踏み切るほかなくなった。宇土御所を失った良成らは、高田の御所に本拠を構えたが、以降軍事的行動を起こすことはなかった。
武朝については詳しい動きは不明だが、目立った軍事行動の形跡はなく、明応3年/元中9年(1392年)に南北朝合一がなされた。