肥後侵攻

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肥後侵攻(ひごしんこう)は、南北朝時代北朝方の九州探題である今川貞世(了俊)による肥後国への侵攻、同地での南朝方と北朝方の抗争について言及する。また、それに付随して発生した肥前筑後での抗争についても述べる。

南北朝期、九州では懐良親王菊池氏に推戴されて活動し、勢力を大きく広げつつあった。親王の大きな支持勢力である菊池武光は、文和2年/正平8年(1353年)針摺原の戦いで九州探題の一色範氏に大勝をおさめ、高良山に征西府を移した。延文4年/正平14年(1359年)8月に大保原の戦いにおいて少弐頼尚大友氏時を破り、のちの長者原の戦いでも氏時や少弐冬資、さらに斯波氏経といった北朝方有力武将を撃破した。大宰府を奪取したのちは豊前豊後にも盛んに攻め入って猛威を振るい、周防大内氏とも合戦に及んだ。また、伊予河野氏を臣従させ、九州一円と周縁地域へと大きな影響力を発揮していた[1]

これに対応するため、室町幕府は今川貞世(了俊)を九州探題に任じ、南朝方にあたらせた。

建徳元年/応安3年(1370年)に九州探題へと正式に任命された了俊は、間もなく九州進出を始める。翌建徳2年/応安4年(1371年)、子の今川義範(貞臣)を高崎城に入城させた。これに対し、菊池武光らは伊倉宮を奉じて攻めたてるも、攻略に失敗した[2]

11月には了俊の弟今川頼泰(仲秋)が肥前に入り、了俊自身は豊前に進出する。これによって武光は牽制され、大宰府まで軍を撤退させざるを得なかった。

建徳3年/応安5年(1372)には、頼泰が筑後まで進軍する。2月、菊池武政がこの軍勢と合戦に及ぶも敗退。その間にも了俊は四国地方などの北朝方と連携し大宰府攻囲を強めた。8月には酒見城菊池武安が頼泰に敗北し、同月の12日、遂に大宰府は了俊らの猛攻撃で陥落する。この前後で菊池武光も病死し、懐良親王率いる征西府は軍事的に最大の支柱を失うこととなった。

武光の跡を継いだ武政は、筑後において北朝方を食い止めたが間もなく死去し、文中3年/応安7年(1374年)には武政の子・賀々丸(武朝・武興)が菊池氏家督を継いだ。筑後高良山が征西府の本陣となっていたが、8月には福童原の戦いで菊池賀々丸が今川了俊に敗れ、探題の筑後への影響が強まった。そのため、11月、懐良親王は同地を退去し、肥後に撤退する。次第に北朝勢力による肥後攻めの態勢が整えられつつあった。

菊池氏は了俊より降伏を呼びかけられたがこれに応じず、九州探題方は同年11月から永和元年/天授元年(1375年)4月に動き、ついに肥後侵攻を果たした。

肥後攻め

南北朝合一後の肥後情勢

脚注

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