芸術としてのゲーム
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芸術とゲームに関する哲学的な議論
1983年、コンピュータゲーム専門誌Video Games Playerは、コンピュータゲームは他のエンターテインメント分野と同様に「芸術的形態」であると述べた[2]。
制度的にコンピュータゲームが芸術として検討されるようになったのは、1980年代後半、美術館が当時既に旧式であった第1世代、第2世代のゲームを回顧的に展示するようになってからである。1989年に開催されたミュージアム・オブ・ザ・ムービング・イメージ(ニューヨーク市)の"Hot Circuits: A Video Arcade"のような展覧会でも、コンピュータゲームが展示された。ここでコンピュータゲームは、学芸員が既に完成していたものをアートとして見せる意図により芸術的価値が生まれる作品として展示された[3]。1990年代後半から2000年代前半にかけて、ウォーカー・アート・センターの"Beyond Interface"(1998年)[4]、オンラインの"Cracking the Maze - Game Plug-Ins as Hacker Art"(1999年)[5] 、カリフォルニア大学アーバイン校ビール・センターの"Shift-Ctrl"(2000年)[3] 、そして2001年にはいくつかの展覧会で、このテーマのさらなる探究が行われた[4]。
デュシャン流のレディメイドやファウンド・オブジェクトとしてのコンピュータゲームのコンセプトは、アートゲームの初期の開発者と共鳴していた。2003年に発表されたデジタルアート・文化学会(Digital Arts and Culture)の論文"Arcade Classics Span Art? Current Trends in the Art Game Genre"の中で、ティファニー・ホームズは、デジタルアート界の重要な新傾向として、『ブレイクアウト』、『アステロイド』、『パックマン』、『バーガータイム』などの初期の古典的作品を参照したり、オマージュを捧げたりした、プレイ可能なコンピュータゲーム作品の開発を挙げている[6]。初期の単純なゲームのコードを変更したり、『Quake』のようなより複雑なゲームを作るためにアート系のModを適用したりすることで、アートゲームというジャンルは商業ゲームと現代のデジタルアートが交差するところから生まれてきた[7]。
2010年にジョージア州アトランタで開催されたカンファレンス"Art History of Games"で、シーリア・ピアースは、デュシャンのアート作品、1960年代のフルクサス運動、そしてとりわけニューゲームズ運動が、より現代的な「アートゲーム」への道を切り開いたと指摘している。シーリア・ピアースによれば、フランク・ランツのPac Manhattanのような作品は、パフォーマンス・アート作品のようなものになっているという[5]。最近では、アートゲームとインディーゲームの間に強い重なりが生まれている。ピアースによると、アートゲームの運動とインディーゲームの運動が出会うことは、アートゲームをより多くの人の目に触れさせ、インディーゲームの可能性を探求するという点で重要である[5]。
2006年3月、フランスの文化大臣は、コンピュータゲームを文化財であり「芸術表現の場の一つ」であると位置づけ、コンピュータゲーム産業に補助金を出し、フランスのゲームデザイナー2名(ミシェル・アンセル、フレデリック・レイナル)と日本のゲームデザイナー1名(宮本茂)の芸術文化勲章の受章を初めて認めた[8]。2011年5月、米国国立芸術基金(National Endowment for the Arts)は、2012年度の芸術プロジェクトに対する助成金の受入において、対象となるプロジェクトを「インタラクティブ・ゲーム」に拡大し、コンピュータゲームの芸術としての認知をさらに高めた[9]。同様に、米国最高裁判所は、2011年6月のBrown v. Entertainment Merchants Association判決において、コンピュータゲームは他の芸術形態と同様に保護された言論であると判断した。ドイツでは、2018年8月以前、ソフトウェアのレーティング機関であるUSK(Unterhaltungssoftware Selbstkontrolle)が、ナチスなどの過激派グループのイメジャリーを含むゲームの販売を禁止する、ドイツ政府が定めたStrafgesetzbuch(ドイツ法典)第86条aを施行していた。第86条aでは、芸術的・科学的著作へのイメージの使用が認められていたが、コンピュータゲームは芸術的使用に該当しないと考えられていた。2018年8月9日、ドイツ政府はコンピュータゲームの芸術性の一部を認めることに合意し、86条aの制限を和らげ、86条aの社会的妥当性の条項に該当する限り、USKはこのようなイメージを含むゲームを考慮に入れることができるようになった[10][11][12]。
ゲームとアートの境界線は、ゲームとインタラクティブ・アートの両方のラベルに当てはまる展覧会の場合、曖昧になる。スミソニアン・アメリカン・アート・ミュージアムは、2012年に"The Art of Video Games"と題した展示を行った。この展示では、古い作品の影響や、コンピュータゲームがその後にクリエイティブな文化に与えた影響など、コンピュータゲームの芸術性を示すことを目的とされた[13]。スミソニアンはその後、このコレクションの中からFloweryとHalo 2600を常設展示として館内に加えた[14]。同様に、ニューヨーク近代美術館は、歴史的に重要な40のコンピュータゲームをオリジナルのフォーマットで収集して展示することを目指しており、「芸術メディアとしてのゲームを称える」という幅広い取り組みの一環として、コンピュータゲームのインタラクション・デザインを紹介している[15]。毎年、Electronic Entertainment Expoの際に開催される"Into the Pixel"アート展では、コンピュータゲームおよびアート業界の専門家からなるパネルが選んだコンピュータゲームアートが展示される[16]。
トライベッカ映画祭では、これまでもコンピュータゲームを取り上げてきたが、2021年の開催では初めてトライベッカ・ゲームズ・アワードが開催される予定である[17] [18]。
コンピュータゲームは、少なくとも2000年代半ば以降、哲学的美学や芸術哲学の分野で注目されており、芸術に関する伝統的な哲学的問題の文脈でコンピュータゲームを考察する文献が増えてきている。その一つが、「コンピュータゲームは芸術であるか」という問題である。2005年、哲学者のアーロン・スマッツは、雑誌Contemporary Aestheticsに掲載された論考 "Are Video Games Art?" にて「いかなる芸術の主要な定義によっても、多くの現代のビデオゲームは芸術とみなされるべきである」と論じている[19]。また、ニュージーランドの哲学者であるグラント・タビナーの2009年の著書The Art of Videogamesは、芸術の定義自体の問題を解決するために採用されてきた選言的定義やクラスタ説の下で考えた場合、「それらは独自の非芸術的で歴史的・概念的な先例を有しているが、ビデオゲームは議論の余地無き芸術作品と適切な概念的関係にあり、芸術としてみなせる」と論じている[20]。後の論文でタビナーは、このカテゴリーの他の例との存在論的な違いにもかかわらず、コンピュータゲームは哲学者のノエル・キャロルが「マス・アート[21]」と呼んだものの例とみなせるとも述べている[22]。ブリティッシュ・コロンビア大学の哲学者であるドミニク・マキヴァー・ロペスは、コンピュータアートに関する本の中でゲームの特徴的なインタラクティビティは、建築や音楽といった既存の芸術形態と比較して、それぞれが「独自の方法で肯定的な美的特性を実現している」ことを意味するかもしれないと指摘しつつも、コンピュータゲームを芸術の一形態とみなす理由を似たような形で述べている[23]。
芸術としてのゲームに関するこれらの最初の哲学的な説明に続いて、コンピュータゲームは芸術の哲学における確立されたトピックとなり、The Journal of AestheticsやArt Criticismなどの美学の雑誌に頻繁に話題としてに登場し、Oxford Encyclopedia of Aesthetics に独立した項目が設けられ[24]、哲学的美学の選集や著作集に登場している[25]。
多くの文献は現在、コンピュータゲームが芸術であるかどうかという問題から、コンピュータゲームはどのような芸術形態であるかという問題に変わっている。セント・アンドルーズ大学の哲学者であるベリス・ガウトは、コンピュータゲームを「インタラクティブ・シネマ」の一種であると考えている[26]。タビナーとジョン・ロブソンが編集した最近のゲームに関する哲学論考集The Aesthetics of Videogamesでは、数名の哲学者が、ゲームがどのような芸術形態であり、特徴的あるいは独特の芸術的な解釈の仕方を含んでいるかどうかを検討している[27]。本の中の「ビデオゲームを鑑賞する」というザック・ユルゲンセンの章では、コンピュータゲームが芸術であるとするこれまでの哲学的議論が「説得力がある」ことを認めつつも、それらの議論では典型的にゲームプレイが無視されていることを指摘し、「ビデオゲームを芸術作品として研究することの価値は、それらをゲームとして理解することに部分的に根ざしている」と述べている[28]。2020年、ユタ大学の哲学教授であるC・ティ・グエンはGames: Agency as Artを出版し、芸術としてのコンピュータゲームの概念を非電子ゲームのより広い考察の文脈で検討している[29]。
共感性の高いゲーム
多くのコンピュータゲームは、そのビジュアルイメージとストーリーテリングが芸術として認められているが、別のクラスのゲームは、一般に、ユーザーがストレスのたまる状況下でキャラクターに扮し、貧困、セクシャリティ、心身の病気に関する話題を取り上げて、プレイヤーに感情的な体験をさせることで注目されている[30] [31]。このようなゲームは、共感性の高いゲームの一例と考えられている。『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙のパトリック・ベグリーは、これらを「プレイヤーをキャラクターの感情世界を住まわせることを求めるゲーム」と表現している[32]。例えば、Papers, Pleaseは、表向きは、架空の東欧圏の国でパスポートやその他の旅行書類をチェックする国境警備員になることをテーマにしたゲームであり、プレイヤー・キャラクターの給料は、どれだけミスをしなかったかを反映しており、家族を養うことに使われるようになる。このゲームでは、すべての適切な書類を持っているわけではないが、自分の愛する人と再会するためなど、通過させるべき切実な理由がある特定の人々を、自分の給料や家族の幸福の代償として受け入れるかどうかの判断をプレイヤーに求めている[33]。