英霊の聲
三島由紀夫の短編小説
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『英霊の聲』(えいれいのこえ)は、三島由紀夫の短編小説。二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校と、神風たらんと死んだ特攻隊員の霊が、昭和天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様を描いた作品である[1][2]。〈などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし〉という哀切なリフレインが、能の修羅物の2場6段の構成で綴られている[3][4]。
二・二六事件で処刑された青年将校・磯部浅一の獄中の手記(獄中日記、行動記)や、河野壽の兄・河野司著『二・二六事件』から影響を受けて執筆された『英霊の聲』は[3][5]、1960年代の三島の一つの転換点となり[6]、その後に書かれる『文化防衛論』などの評論への前駆的な役割を担っていた作品である[7][注釈 1]。
なお、『英霊の聲』の挿入歌の先行試作と見られる、7篇の歌からなる『
発表経過
内容
審神者の木村先生の主宰する「帰神の会」に列席した「私」が、そこで見聞したことを〈能ふかぎり忠実に〉記録していくという体裁をとって、二・二六事件の蹶起将校と、大東亜戦争の神風特攻隊の兵士たちの霊が次々と、木村先生の吹く石笛の音色とともに霊媒師の青年・川崎重男に憑依し、呪詛する模様が綴られてゆく[1][2]。
〈などてすめろぎは人間となりたまひし〉(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)と繰り返される畳句は、昭和天皇に向けられている。二・二六事件の際の天皇の振舞いと、敗戦後の1946年(昭和21年)1月1日のいわゆる「人間宣言」で、天皇が「人間」になってしまったことを、兵士たちの〈裏切られた霊〉は悲しみ憤り、その英霊たちの声がこだまする[1]。
あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを陛下は二度とも逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 — 三島由紀夫「英霊の聲」[15][1]
強い怨念の霊の力を受け止めた霊媒師の川崎重男が息をひき取るところで物語は終わり、その死顔が川崎君の顔ではない、〈何者かのあいまいな顔〉に変貌しているところで締めくくられる。
構成
作品背景
三島は『英霊の聲』を書いた動機として、〈二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだ〉と述べ[3]、心の裡で底流していた、〈永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉を手繰ると、どうしても天皇の人間宣言に引っかかるとして、以下のように語っている[3]。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。(中略)
そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の聲」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。—三島由紀夫「二・二六事件と私」[3]
また、河野壽大尉の兄で、『二・二六事件』(1957年刊)の著者の河野司は、1966年(昭和41年)3月に馬込の三島宅を訪れ、二・二六事件の挫折の原因について三島と話し合った時のことを述懐している[16][17][注釈 2]。河野が、「最終的には天皇との関係の解明につきると思います」と言うと、三島も、「やはりあなたもそうですか」と同意したという。また、叛乱部隊となった青年将校らが、天皇の赤子として自らの犯した罪を、死を以て償おうと最後に自決を決意して、その際の勅使の差遣を仰ぎたいと侍従を通じて申し入れたにもかかわらず、昭和天皇は、「自殺するなら勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり」と個人的感情を前面に出してしまったことに関しても、「日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」と三島は言ったという[16][17]。
(陛下が)勅命を下し叛乱部隊の原隊復帰を命じたことも当然であったと思う。しかるに何故か、勅令の下達実行が遷延した時点において、陛下は「朕自ら近衛師団を率い、此が鎮圧に当らん」とまで叱咤しておられる。ここまでは理解できる。しかしその後、蹶起将校一同は全員自決を決意し、自決に際しては、せめて勅使の差遣を仰ぎたい旨の懇願を、本庄侍従武官長を通じて奏上した。この最後の願いに対する陛下のお言葉は、「陛下には非常なる御不満にて、自殺するなら勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なりと仰せられ」と、「本庄日記」にある。これは私達が天皇に抱く不抜の信念からは、どうしても理解ができない。(中略)いま、陛下の赤子が、その犯した罪を死をもって償おうとしている。「そうか、よく判ってくれた」と、温かく侍従に、「お前行ってよく見届けてやってくれ」と何故に仰せられないだろうか。ここまで言った私の言葉に、三島氏は、
「人間の怒り、憎しみですね、日本の天皇の姿ではありません、悲しいことです」と、言葉をはさんだ。 — 河野司「私の二・二六事件」[16][17]
そして、もしもこの天皇の発言を獄中の将校たちが知ったとしたら、彼らは、はたして「天皇陛下万歳」と絶叫して死んだだろうかと、河野が訊ねると三島は、「君、君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」と、涙ぐみ声を詰まらせていたという[16][17]。河野は、声を詰まらせたその時の三島の姿がずっと忘れられないと述懐している[16][17]。
『英霊の聲』を発表後、三島は河野司への書簡で、〈御令弟をはじめ、二・二六蹶起将校の御霊前に捧げるつもりで書いた作品であります。――しかしそれにつけても、現代日本の飽満、沈滞、無気力には、苛立たしいものを感じてなりません。これは小生一人のヒステリーでありませうか?〉と記している[19][20]。
また、『サンデー毎日』のインタビューでは、〈天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆるモラルの混乱はそれが原因です〉と答えて、それは日本の農本主義から生まれた「天皇」(神)を媒体とした「愛」の問題に関わる重要なことだと主張していた[21][22][23]。
国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。(中略)愛し合ふ二人の他に、二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終はり、ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、さういふ意味です。—三島由紀夫「三島由紀夫氏の“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」[21]
秋山駿との対談では、『英霊の聲』を書いたことで、自分が〈救われた〉として、三島は以下のように語っている[24][25]。
「三熊野詣」とか一連の短篇を書いたことがある。あの時は、自分がどうなるかと思いました。文学がほんとうにいやでした。無力感に責められていやでした。なにをしても無駄みたいで、なにか「英霊の声」を書いた時から、生々してきちゃったのですよ。人がなんと言おうと、自分が生々していればいいのですからね。あれはおそらく一つの小さな自己革命だったのでしょう。とてもよかった。
文壇の反響・同時代評価
『英霊の聲』に対する時評や合評では、作品がイデオロギー的な側面や天皇批判を含んでいるために、部分的には共感を持てるという意見もありながらも、全面的な賛意を積極的に示す評価は少ない[26]。
また、天皇を批判したことから既成右翼から何通も抗議文や脅迫状が三島宅に来たという[1]。左翼の日本共産党からは「右翼的修辞」に投じているとして党機関紙『しんぶん赤旗』で論断された[27]。その一方、三島宅には「熱烈な感謝や共鳴や激励の手紙」がたくさん届き、わざわざ来訪する人もいた[28][25]。中には「先生を共産党からお守りするために場合によっては数名の男がこれから上京してもよい」というボディーガードの申し出の連絡もあったという[28]。
文壇の反響としては、花田清輝は、右翼の側からの天皇批判として一定の評価をしながらも、ふざけているといった否定的な発言もし[29]、江藤淳は、「国民心理の空隙を機敏にとらえたセンセーショナルな問題小説」だが、そこから感じられるのは「露出された観念」だとし、エロスを主題にしながらも「意外に清潔」で「審美的」だった『憂国』と比べて、「イデオロギー的」であり、「妙に猥褻」と評した[30][31]。江藤淳は、昭和天皇の「人間宣言」について、あの宣言をしたからといって天皇が変わるわけではないという、三島とは異なる認識を持っていた[32][注釈 3]。石原慎太郎は、世俗を拒否する三島の方法論が、歴史に乗り出すのは誤りだと評した[33]。
村松剛や奥野健男は、一定の理解を示して三島の意図を汲み取ろうとし[34][35]、饗庭孝男は、英霊の〈復権〉は不可能であるがゆえに美しいと論考した[36]。葦津珍彦は、兵士の霊が慰められ名誉が回復されなければならないゆえに、作品意義があると高評価した[37]。
山本健吉は、戦後民主主義がもたらした「空虚な偽善」、「厭うべき低俗」を批判しようという三島の創作動機に同意しつつも、「三島氏の小説としては想が痩せている」と以下のように評した[38]。また、余談として、天皇を神としたのは「明治以降の非情の合理思想」ではあったが、二・二六事件の将校や特攻隊の「心情と行動」を素直に愛惜できない現代人の「心の卑俗さ」と比べると、藩主と徳川家に殉じた会津の白虎隊士の心情や行動力を愛惜した明治人の「心の余裕」の方が「はるかに立派だった」と述べた[38]。
天皇の神性喪失に、氏は今日、日本人の精神の灰色の沈滞と堕落をもたらした原因を帰しているもののようである。あえて氏が、このような極端な発想の小説を書かねばならない理由は、わからないではない。戦後の民主主義がもたらしたあらゆるものが、氏には空虚な偽善と見え、厭うべき低俗と見えているのだ。だが、一たび神性を棄てられた天皇を、国民はもう一度神に復帰させることはできない。その不可能を作者は知りながら、あえて書いたとすれば、それは作者の考える今日の状況の絶望の度の大きさを物語るものだろう。その空虚を、民主主義という護符で埋められると思っている知識人たちののんきさが、氏にはいらだたしいのだろう。
だが若い英霊たちの復権を訴えようとする時事的な姿勢のせいか、これは三島氏の小説としては想が痩せている。私にはこれは、天皇制の問題でなく、宗教の問題だと思っている。 — 山本健吉「文芸時評」[38]
瀬戸内寂聴は、最後の〈何者かのあいまいな顔に変貌〉した川崎青年の死顔の、その変容した顔が天皇の顔だといち早く気づき、「三島さんが命を賭けた」と思い手紙を送ったと述べている[39]。すると三島から、〈この作品についての最初の反響が、このやうな過分な賞讃であつたといふことは、小生の何よりの仕合せです〉、〈ラストの数行に、鍵が隠されてあるのですが、御炯眼に見破られたやうです。能と仰言るのも、修羅物を狙つたわけです。小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉という返事があった[39][40]。
二・二六事件参加将校の中で、唯一割腹自決した河野壽大尉の兄・河野司は、『英霊の聲』は、事件から30年あまり経っても「遺族の立場としてどうしても言えないこと」をはっきりと書いてくれているとして、「青年将校たちへの理解、とくに天皇への不信」が「ズバリと書かれていること」に感謝し、事件関係者や遺族が「訴えたい、理解して欲しい悲願の一つ一つが、三島氏によって代弁されている」と述べた[20]。
また、作品の発表された翌月の7月に河野司がある用件で、当時警察庁次長の後藤田正晴を訪ねた時に後藤田は机の上から『英霊の聲』を持ってきて、「これを読んだか、その感想は?」と聞いてきて、警視庁としていち早く、その内容について検討し関心を持っていたという[20]。
作品研究・解釈
橋川文三は、「二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれないであろう」というのが自論だったと前置きし、その理由として、そのテーマが「神学の問題」を孕み、「正統と異端という古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界」に関わる問題があるからだとしている[41]。
そして『英霊の聲』では、「ある至高の浄福から追放されたものたちの憤怒と怨念」が凄まじいまでに満ち、「幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちの叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる」と評し[41]、作者の三島はその中で、「それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割」をしているとし、以下のように解説している[41]。
加藤典洋は、1966年(昭和41年)に書かれた『英霊の聲』は、日本の戦後にとり、最も重要な作品の一つであるとし[42]、「日本の戦後に三島のような人間がいてくれたこと」を日本の戦後のために喜び、「日本の戦後の意味」が、三島がいるといないで、「大違い」となり、「三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった」理由について解説している[42]。
加藤は、『英霊の聲』に示されている三島の考えには、「もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的なみちすじ」があり、「日本の戦後のローカルな論理」に染まらない三島が、「普遍的な人間の考え方」をそこで示したことによって初めて、「日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるか」が告知されていたとして[42]、最後に霊媒師の川崎君の顔が〈あいまい〉な「昭和天皇の顔」になるという暗喩が含まれている『英霊の聲』の主題について以下のように考察している[42]。
富岡幸一郎は、『英霊の聲』にも描かれている当時の高度経済成長による繁栄と、そのひずみでもあった公害問題などの時代背景を見ながら、「物質的には豊かになってきた日本人は、一方で、その大衆社会状況のなかで癒しがたい精神の空洞を感じはじめていた」とし、三島はその「空洞」に向かって、この作品を投げつけたと解説している[2]。
戦後日本の空前の経済復興が、実は日本人が自分たちがやった戦争の意味と敗北の現実を忘れ去り、国のために家族同胞のために死地に赴いた者たちの魂を忘れ、民族の誇りを捨て去った、その上に咲く虚妄の“繁栄”にすぎないのではないかという、そのような問いである。そして三島は、その虚妄の原点を、昭和天皇の「人間宣言」に見たのであった。 — 富岡幸一郎「三島由紀夫の一神教的『天皇』」[2]
アイヴァン・モリスは、神風特攻隊について論じた評論で、彼らが自身の家族や天皇、日本国という一つの家族への報恩を表明しつつも、彼らが死後の生や転生を単純に信じていたというわけではなく、迷いや死への怖れや苦悶を感じ、日本が敗戦するだろうことを知りながらも日本人特有の精神性で自らの死を能動的に捉え、その覚悟の背後に武士道の伝統がみえることを考察する中[43]、三島が『英霊の聲』において敗戦そのものよりも天皇が人間宣言によって、英霊たちが身を捧げた原則を「架空なる観念」としてしまったことで、隊員らの敗北感を癒やすことが不可能になり、彼らの死を死後に裏切り冒涜したことになるという描き方をしたことに触れ、「三島由紀夫に対する敬意を抱きつつも、私は特攻隊志願者の動機は、この挽歌から与えられる印象ほど単純ではなく、かなり錯綜していたと考える」と述べている[44]
島内景二は、『英霊の聲』と、三島が『葵上』(近代能楽集)でも採用した原曲の『葵上』を比較しながら、「六条の御息所=兵士たち」、「光源氏=天皇」という対応構造をみて[45]、三島が『英霊の聲』創作ノートの中で、〈霊媒死す。天皇の化身〉と記していることに注目しながら、天皇を恋し信じて決起し、裏切られて死んだ二・二六事件や神風特攻隊の英霊たちに長時間打ち据えられ命を失う「川崎君」が「天皇の身代わり」になることと、光源氏に裏切られ憎みつつも、それ以上に光源氏を深く愛している六条の御息所の怒りが、「葵上」へと向かい、激しい「後妻打ち」となることの構図の類似性を指摘している[45]。そして島内は、そこに三島の創設した会が「楯の会」と命名された真の理由があるとして以下のように解説している[45]。
「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。戦後日本は昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。だから『英霊の聲』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。 — 島内景二「第五章 日本文化と戦った三島由紀夫――人間は誰のために死ねるか」[45]
また島内は、『朱雀家の滅亡』の場合も、朱雀侯爵が自らの一族の滅亡を受け容れ、「楯」になっている構図があるとし[45]、「天皇陛下万歳」を三唱して自死した三島もそのように、「天皇」(あるいは「天皇制」)の「醜の御楯」となり、「英霊たちの怒りを引き受ける役割」を果たそうとしたと述べて[45]、英霊の怒りが理解できる三島だったから、「その怒りを我が身に引き受けよう」とし[45]、「川崎君」の死顔が「天皇の顔」に近づいたのと同様、三島が「天皇のために死ぬ」ことは「天皇として死ぬ」ことと同じであったと考察している[45]。
浜崎洋介は、城山三郎の『大義の末』(1959年)の主題を「ものすごい凝縮度で煮詰め」、それをある種の「恨み」という主題によってまとめた傑作が『英霊の聲』だとし、三島が福田恆存との対談で〈日本人は絶対、民主主義を守るために死なん〉[46]と言っていたことに触れつつ、この作品で扱われているのは、民主主義のような政治的制度を超えた「信仰」の問題であり、日本人の「信仰」を奪ってしまった戦後に対する三島の「恨み」や天皇の「人間宣言」批判が綴られていると解説している[47]。
川端祐一郎は、夜になると英霊たちが海の上に集まって宴会をして語り合っているという描写の構図そのものが視覚的イメージとして印象的で「すごく美しい」とし、川端自身は宗教心が希薄な方であるが、「日本の国はそういうふうにして支えられているんだ」、「日本人の国家観、先祖観、死生観が詰まった美しい構成」だと素朴に想像できたと評している[48]。また、作中で、二・二六事件に参加した「皇道派」の将校らが処刑されてから〈わが皇国の大義は崩れ〉、〈漢意のナチスかぶれの軍閥は、さへぎるもののない戦争への道をひらいた〉とあるところに、当時の「統制派」軍人に対する三島の批判や歴史観が看取され、川端自身も、二・二六事件から現代にいたるまで、「維新の志士」的な人たちの〈まごころ〉が世の中を動かすという可能性が絶たれてしまったように感じるとし、あの事件以来、「世の中はメカニカルな機構としてしか動かなくなった」ことなどに気づかされる作品だと論じている[48]。
あれ以来、世の中はメカニカルな機構としてしか動かなくなった。だからこそ天皇も、戦争の末期にはそういう材料としてしか使われなくなったのでしょう。
昭和20年(1945年)の敗戦による断絶もありますが、昭和11年(1936年)に二・二六事件も、近代日本の大きな曲がり角だった。「真心」が通用しない社会になったという大きな損失に気づかされるところがあって、その意味でもすごく刺激的な作品でした。 — 川端祐一郎「第一章 【断絶編】孤児になった感情――三島由紀夫『英霊の聲』【日本人の感覚にフィットした天皇主義】」[48]
エピソード
母・倭文重は、三島から『英霊の聲』の原稿を渡された時のことを、以下回想している[49]。
倭文重によると、三島は執筆にとりかかる2、3日前には、二・二六事件当時の東北農村部の貧しい疲弊ぶりの状況を「うっすらと涙を浮べさえして」彼女に説明していたという[49]。
奥野健男は、『英霊の聲』を読んだ時、三島が磯部浅一の霊に憑りつかれていたのではないかと感じたとし[5]、その昔の1959年(昭和34年)7月29日に三島宅に奥野夫妻、澁澤龍彦夫妻、画家の藤野一友夫妻が招かれ[5][50]、皆でコックリさんをやっていた時に、三島が「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と大真面目に呟いたことを述懐している[5]。
なお、1970年(昭和45年)1月1日に三島宅で行われた新年会で、丸山明宏が磯部浅一の霊が三島に憑いていると言ったのを村松英子が聞いたという[51][52][注釈 4]。
演出家の堂本正樹は、『英霊の聲』を能の様式で舞台化できないかを三島から打診され、制作の計画を練るうち、消防法の制約から野外劇場で、薪能様式で行うことを考えて、具体的な演出を武智鉄二に委託する案を三島に伝えたが、武智はこの頃、三島と政治的な立場が異なっていたため、三島が躊躇して実現しなかったという[4]。
昭和天皇がこの作品自体を読んだかどうかは定かではないが、作中の台詞の〈などてすめらぎは人間となりたまひし〉の一節を承知していたのではないかと松本健一は推察している[54][55]。また、作品発表と同年の11月に三島は夫人と共に秋の園遊会に招かれ出席したが、奥野健男は「こんな呪詛の作品を発表しながら」も「よくも出席したものだ」と不思議に思ったとしている[5]。
おもな収録刊行本
単行本
- 『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月30日) NCID BN05024894
- 『英霊の聲』(河出書房新社「河出文芸選書」、1976年2月15日)
- 文庫版『F104――英霊の聲/朱雀家の滅亡』(河出文庫、1981年6月4日)
- カバー装幀:榛地和。カバーデザイン:粟津潔。全207頁。付録中に書影など写真4葉あり。
- 収録作品:「F104」「英霊の聲」「朱雀家の滅亡」、付録「著者ノートにかえて」(「二・二六事件と私」(抄)、「後記(『朱雀家の滅亡』)」)
- 文庫版『英霊の聲』(河出文庫・BUNGEI Collection、1990年10月4日)
- 文庫版『英霊の聲 オリジナル版』(河出文庫、2005年10月5日)
- カバーデザイン:榛地和。カバー装画:粟津潔。カバーフォーマット:佐々木暁。全268頁
- 解説:藤田三男「『英霊の聲』の声」
- 収録作品:初版単行本と同一内容。
- 『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集 雛の宿』(ちくま文庫、2007年9月10日)
- 文庫版『手長姫・英霊の声 1938-1966』(新潮文庫、2020年11月1日)
- 英語版『Voices of the Fallen Heroes, and other stories』(Vintage Books、2025年1月)
- 編者:Stephan Dodd。「英霊の聲」の訳者:Paul McCarthy
- Introduction(まえがき):ジョン・ネイスン
- 収録作品:苺(Strawberry)、帽子の花(The Flower Hat)、月(Moon)、自動車(Cars)、可哀さうなパパ(Poor Papa)、切符(Tickets)、孔雀(The Peacocks)、朝の純愛(True Love at Dawm)、月澹荘綺譚(The Strange Tale of Shimmering Moon Villa)、荒野より(From the Wilderness)、英霊の聲(Voices of the Fallen Heroes)、仲間(Companions)、時計(Clock)、蘭陵王(The Dragon Flute)
全集
- 『三島由紀夫全集17巻』〈第8回配本〉(新潮社、1973年12月25日)
- 背革紙継ぎ装。貼函。帯。四六判。全637頁。旧字・旧仮名遣い。
- 装幀:杉山寧。口絵写真1頁1葉(著者肖像)あり。
- 監修委員:石川淳、川端康成、中村光夫、武田泰淳。編集:佐伯彰一、ドナルド・キーン、村松剛、田中美代子
解題・校訂:島崎博、田中美代子。 - 月報:松本道子「或る日の思い出」。佐伯彰一《評伝・三島由紀夫》8「二つの遺作(その7)」。虫明亜呂無《同時代評から》8「『英霊の声』『絹と明察』などをめぐって」。「主要参考文献目録8」(作成:島崎博)。写真3葉
- 収録作品:「剣」「絹と明察」「月澹荘綺譚」「三熊野詣」「孔雀」「朝の純愛」「仲間」「英霊の聲」「荒野より」「時計」「蘭陵王」
- ※ 同一内容で豪華限定版(総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。装幀:杉山寧
- 『三島由紀夫短篇全集』〈下巻〉(新潮社、1987年11月20日)
- 布装。カバー。セット機械函。帯。四六判。2段組。1,040頁
- 収録作品:「家庭裁判」から「蘭陵王」までの73篇
- 『決定版 三島由紀夫全集20巻・短編6』(新潮社、2002年7月10日)