草間偉
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長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)の草間代次郎の二男・偉瑳武として生まれる[2][3]。旧制第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州鉄道に入社[1]。別府線建設に従事したのち鉄道院に転じ日豊線建設を担当する[2]。1909年(明治42年)母校の東京帝国大学工科大学助教授に転じ、1918年(大正7年)から衛生工学の研究のため[2]、2年間の欧米留学でイリノイ大学、コーネル大学、ハーバード大学などでに微生物学、水理学などを学び、帰国後は逝去した中島鋭治に代わり1921年(大正10年)教授に進み土木工学講座担任となり、1942年(昭和17年)退官した(名誉教授)[1]。
退官後は早稲田大学教授となり、1943年(昭和18年)の早稲田大学理工学部土木工学科創設の際は、初代学科主任に就任[4]。ついで、高岡市、前橋市、名古屋市、福井市、南満州鉄道などの上下水道顧問などを歴任した[1]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
1923年(大正12年)の関東大震災をいち早く欧米に知らせた福島県相馬郡原町の無線塔は草間の設計によるものである[2]。