荒野の聖フランチェスコ

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製作年1480年頃
種類油彩、板
寸法124.4 cm × 141 cm (49.0 in × 56 in)
『荒野の聖フランチェスコ』
イタリア語: San Francesco nel deserto
英語: St. Francis in the Desert
作者ジョヴァンニ・ベッリーニ
製作年1480年頃
種類油彩、板
寸法124.4 cm × 141 cm (49.0 in × 56 in)
所蔵フリック・コレクションニューヨーク

荒野の聖フランチェスコ』(こうやのせいフランチェスコ、: San Francesco nel deserto, : St. Francis in the Desert)は、ルネサンスイタリアヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニが1475年から1480年頃に制作した絵画である。油彩。主題はイタリアの守護聖人で、フランチェスコ会の創設者として知られるアッシジの聖フランチェスコであり、ベッリーニは宗教的人物を広大な風景の中に配置して描いた。ベッリーニ中期の傑作で[1][2]、美術収集家ヘンリー・クレイ・フリック英語版に購入され、現在はニューヨークフリック・コレクションに所蔵されている[1][2][3][4][5]

アッシジの聖フランチェスコは13世紀に最も影響力のあるキリスト教指導者の1人であった。1181年あるいは1182年にアッシジの裕福な織物商の家に生まれた。いくつかの経験を経て回心し、家族の縁を切ってサン・ダミアーノ教会英語版を修復。1209年あるいは1210年に小さき兄弟会を創設した。1224年の夏、聖フランチェスコはアペニン山脈にあるラ・ヴェルナ英語版に引き篭もった折に神秘的な幻を見たと伝えられている。チェラーノのトマス英語版によると、それは熾天使のように6枚の翼をもった人間の姿をしており、十字架のように両腕を広げ、両足をそろえていたという。この幻を見つめているうちに、聖フランチェスコの両手足と脇腹の5箇所にキリストと同様の傷痕が現れた。この傷痕は聖人が死去するまで消えることはなかった。ボナヴェントゥーラはこの幻をキリストの磔刑像と見なした[6]。この奇跡は文書によって記録された聖痕の最初の事例とされる。しかし聖痕の痛みに加えて眼病が悪化し、シエナで危篤に陥り、1226年にアッシジ郊外のポルツィウンコラ礼拝堂英語版で死去。1228年にローマ教皇グレゴリウス9世によって列聖された[7]

作品

ベッリーニはルネサンス期の多くの宗教画とは異なり、ヴェネツィアの田園地帯を描いた。本作品に描かれた風景はルネサンス期の絵画の中でも最も大規模かつ最も広大なものの1つである[8]。しかもイタリアルネサンス絵画の中で最も克明に描写されている。ベッリーニは洞窟から出てきて、広大で美しい風景の中で裸足で立ち、両腕を広げながら瞑想する聖フランチェスコを描いた。聖人は茶色の伝統的なローブを着ており、その掌にはその身に現れた聖痕がかすかに見える[3]

絵画の中で神の存在は自然を通して示されている。聖痕は画面の左上隅から降り注ぐ神秘的な光を通して聖フランチェスコの身体に顕現し、周囲の風景や動物たちは、聖フランチェスコと自然界との密接な関係を際立たせている[3]。聖フランチェスコは素朴なを編んだ洞窟のそばに立っている。岩山の洞窟は日陰になった部分に描かれ、明るい場所に描かれた聖フランチェスコの身体は暗い洞窟と対照的である。前景では、石だらけで、危険で、暗く、苔むし、ブドウに覆われた庵の屋根の下にある薄暗い洞窟の入口に焦点が当てられている。洞窟の前には書見台と聖人のいくつかの所持品、聖書、机、隠者頭蓋骨、2足のサンダル茨の冠英語版と、それを掛けた細木の幹で作った十字架が置かれている。庵のそばには石積みの花壇もある。岩だらけの場面ではあるものの、不毛な雰囲気はない[9]。画面中央の背景には、壁に囲まれた都市、小高い丘、そこに広がる畑と丘の上の小さな町、豊富な水が流れる水路と橋、ロバアオサギの群れを世話する羊飼いの姿が見える。聖人の周囲には花壇の石積みの隙間から顔を覗かせる野ウサギや、枝から葉が芽吹いている幹が折れたイチジクの木、岩場の下には水が流れ出る樋口と小さなカワセミが描かれている[9]。ここに描かれた鳥獣や羊飼いはみな聖フランチェスコの霊的な幻視に気づいていないように見える[2][3]

草地の土手には、夜明けに開花し、日が暮れると枯れるヒルガオがわずかに生えているほか、9月29日の聖ミカエル祭の頃に咲くミカエルマス・デイジー英語版が点在している[2]。小さな石積みの花壇にはオリスモウズイカヤコブの杖とも呼ばれるアスフォデリネ・ルテア英語版ビャクシンなど、様々な薬草が植えられている。岩壁にはチャセンシダウンラン英語版キヅタが自生し、崖の上には果実をつけた別のイチジクが生えている[2]

空は躍動的で生き生きとした明るい青色である。画面左上から降り注ぐ光は風景の中へと進んでいる。その一方で岩場や緑の野原から光線が放たれ、絵画全体から明るい雰囲気が生じているかのような感覚が漂う。聖フランチェスコは降り注ぐ神秘的な光を吸収し、絵画全体に広げているように見える。まるで世界が天国を見上げる聖フランチェスコの聖性を通して照らされているかのようである[9]

ベッリーニはおそらくアントネロ・ダ・メッシーナからの影響で油彩とテンペラを併用した。画家の義理の兄弟であるアンドレア・マンテーニャの影響も見て取れる。左下隅に見えるの小さな折り目がある布の切れ端にラテン語表記で「IOANNES BELLINVS」と署名されている[3][10]

象徴性

1240年から1250年の『聖痕を受ける聖フランチェスコ』。聖フランチェスコは十字架の熾天使から放たれた光に撃たれ、聖痕が顕現している。ウフィツィ美術館所蔵。ジョット・ディ・ボンドーネの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』の伝統的な表現では熾天使から放たれた光によって聖フランチェスコの身体の各場所に聖痕が授けられている。1295年から1300年。ルーヴル美術館所蔵。 1240年から1250年の『聖痕を受ける聖フランチェスコ』。聖フランチェスコは十字架の熾天使から放たれた光に撃たれ、聖痕が顕現している。ウフィツィ美術館所蔵。ジョット・ディ・ボンドーネの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』の伝統的な表現では熾天使から放たれた光によって聖フランチェスコの身体の各場所に聖痕が授けられている。1295年から1300年。ルーヴル美術館所蔵。
1240年から1250年の『聖痕を受ける聖フランチェスコ』。聖フランチェスコは十字架の熾天使から放たれた光に撃たれ、聖痕が顕現している。ウフィツィ美術館所蔵[15]ジョット・ディ・ボンドーネの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』の伝統的な表現では熾天使から放たれた光によって聖フランチェスコの身体の各場所に聖痕が授けられている。1295年から1300年。ルーヴル美術館所蔵[16]

『荒野の聖フランチェスコ』は15世紀に絵画技術を洗練させたベッリーニの集大成である。本作品は清貧と孤独な修行の生活を送った聖フランチェスコの象徴的な表現である可能性が高く、描かれた動物たちは自然と動物に対する愛で知られる聖人の特徴を表したものと考えられる[2][17]。この作品はおそらく美術史家ミラード・ミース英語版が示唆するように聖痕を受け、法悦状態にある聖フランチェスコを描いたものである[1][2]。しかしこの場面は伝統的に光線を発する天使、熾天使、もしくは十字架とともに描かれるが、本作品はそれを欠いている。あるいはリチャード・ターナー(Richard Turner)が主張するように祈りを捧げているか、あるいは聖人が作った『太陽の賛歌英語版』を歌っているのかもしれない[2][18]。描かれた具体的な場面が何であれ、本作品の表現は斬新であり、すでに確立されていたどの図像的モチーフにも従っていない[17]

左中景には謙遜と忍耐の象徴と解釈できるロバが描かれている。右下隅の素朴な書見台の上には、聖フランチェスコの賛歌の最後の節でも歓迎されている死すべき運命を象徴する頭蓋骨が置かれている。この洞窟は、聖フランチェスコと同様に洞窟あるいは庵室に住んでいた聖ヒエロニムスと関連づけているのかもしれない。風景のいくつかの要素は『旧約聖書』における預言者モーセのエピソードについて言及している。たとえば画面左端の背の高い月桂樹の燃え盛るような葉はモーセの前に現れた燃える柴英語版を、画面左下の岩の崖下にある水の流れる樋口はモーセが岩を打って水を湧出させたことを表している[2]。聖人は神に履物を脱ぐよう命じられたモーセのように、サンダルを脱ぎ捨てて裸足で立っている。おそらくベッリーニは聖痕の顕現を人間が神へと変容する瞬間と捉えた[19]。聖人の周囲の岩は、彼の人生がまさに変容したことを暗示する水の流れへと変化している[9]。小屋の上に広がるブドウの蔓は聖体拝領を、芽吹いたイチジクと雨樋の下に止まった小さなカワセミは復活を、アオサギと石積みの下から顔を覗かせる野ウサギは隠者の生活を象徴している[2]。小さな花はそれぞれ、清貧、貞潔、奉仕の生活を守った聖フランチェスコを表している。絵画は聖フランチェスコの聖痕顕現だけでなく、聖人が作曲した神による自然の創造を讃える歌、太陽の賛歌も表現している[18]。全体的なメッセージはベッリーニが神の王国を賛美していることを表している[10]

状態

17世紀のマルコ・ボスキーニによると、この絵画には元々「炎の熾天使の姿で現れるキリスト」が描かれており、板絵の上部が切り取られたことが示唆されている。近年の技術的調査により、実際に板絵は上端が切り取られていることが確認されている[2]。この点は画面が板の端まで完全に続いていることから明らかである。しかしながら、元の絵画は現在のサイズと比べてわずかに大きいくらいであっただろうと推定されている[20]。『荒野の聖フランチェスコ』は、科学者や修復家らによる詳細な洗浄と高度な技術的評価を受けるためメトロポリタン美術館に送られた。絵画には下絵の痕跡があった[9]。保存状態は画面がわずかに縮小されている以外は非常に良好であり[2][20]、制作以来、手入れがよく行き届ている[20]

来歴

画面左下の署名。

絵画の発注者や制作経緯などは不明である[2][3]。一説によるとヴェネト州サン・フランチェスコ・デル・デゼルト島英語版にあるフランチェスコ会修道院祭壇画として描かれた[2]。しかし、ヴェネツィアの宮殿のメインホールを装飾するために制作された可能性もある。1525年に芸術に造詣が深いヴェネツィア貴族マルカントニオ・ミキエル英語版によって、ほぼ確実に本作品と思われる作品がタッデオ・コンタリーニ(Taddeo Contarini)の邸宅で目撃された[2][3]。ミキエルは絵画について「素晴らしく構成された詳細な」風景とともに描かれた「油彩の荒野の聖フランシチェスコ」と述べている。さらにミキエルによると、絵画は十人委員会の書記であったツアン・ミキエル(Zuan Michiel)のために描かれたという[2]。あるいは枢機卿およびヴェローナ司教であったジョヴァンニ・ミキエル英語版の発注により制作されたとの見解もある[3]。タッデオ・コンタリーニが所有していた絵画は、その後、ヴェネツィアのジュスティニアーニ宮殿コルナーロ宮殿に収蔵されたようである[2]。1812年にパリの美術収集家ジョセフ・デフォルジュ(Joseph Desforges)によって購入され、1850年にはロンドン美術商ウィリアム・ブキャナン(William Buchanan)に800ポンドで購入された[2]。さらに1852年6月19日にクリスティーズ競売にかけられ(ロット番号48)、ジョセフ・ディングウォール(Joseph Dingwall)に735ポンドで落札された[2]。1857年にはマンチェスター美術名宝博覧会英語版に出品されている[21]。このディングウォールがバークシャー州サニングヒル英語版に所有していたカントリーハウスティッテンハースト・パーク英語版と本作品を含む所蔵品は、1869年に実業家トーマス・ホロウェイ英語版に売却された。1883年にホロウェイが死去すると、絵画はホロウェイの義理の妹メアリー・アン・ドライバー(Mary Ann Driver、1875年に死去したホロウェイの妻ジェーンの妹)とその夫ジョージ・マーティン(George Martin)に相続された[3][2]。美術史家バーナード・ベレンソンは1894年のヴェネツィア派の画家のリストから本作品を削除し、ロジャー・フライは1899年のベッリーニに関するモノグラフから本作品を除外した。そして彼らは本作品をベッリーニの追随者(マルコ・バサイティ)の作品と見なした。しかし絵画が1912年にロンドンで展示されるとセンセーションを巻き起こし、ベレンソンとフライは見解を変更せざるを得なかった[2]。1915年、アメリカ合衆国の実業家、投資家パトロン、美術収集家であったヘンリー・クレイ・フリックが絵画を17万ドルで購入した[2][22]。絵画はニューヨークのフリック・コレクションに収蔵され[2][23]、フリックの邸宅の居間に堂々と展示された[20]。絵画は現在もフリック・コレクションに所蔵されており、コレクションの最高傑作の1つと見なされている[20]

ギャラリー

脚注

参考文献

外部リンク

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