薛訥
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左武衛大将軍の薛仁貴の子として生まれた。城門郎を初任とし、藍田県令に転じた。富商の倪氏が御史台でその私債について審理され、御史中丞の来俊臣は倪氏からの賄賂を受けて、義倉米数千石を出して倪氏に給与させようとした。薛訥は「義倉はもともと旱害に備えるためにあるもので、一家の資産にあてるものではない」といって、与えないよう上奏した。ちょうど来俊臣が罪を得たため、その事案は沙汰止みとなった。聖暦元年(698年)、突厥が河北に侵入すると、薛訥は左武衛将軍・安東道経略を兼ねた。薛訥は廬陵王李顕を皇太子とする方針を変えないよう武則天に求めた。ほどなく幽州都督に任じられ、安東都護を兼ねた。并州大都督府長史に転じ、検校左衛大将軍を兼ねた。辺境に駐屯する任にあること久しく、戦功を重ねた[2][1]。
先天元年(712年)、玄宗が即位し、新豊で講武がおこなわれると、薛訥は左軍節度をつとめた。このとき元帥と礼官が罪を得て、諸部隊は動揺して秩序を失った。ただ薛訥と解琬の軍だけが動かなかった。玄宗は軽騎を派遣して薛訥らを軍門を召し入れた。軍礼が終わると、玄宗は薛訥を慰労した[3][1]。
ときに奚と契丹が突厥と連合して、しばしば唐の辺境を侵犯していたので、薛訥は軍を出してこれを討つよう建議した。開元2年(714年)、薛訥は同紫微黄門三品となり、兵を率いて奚・契丹を討つことになった。6月、薛訥の軍は灤河に到達し、奚・契丹の軍に遭遇して敗れ、逃走した。敗戦の罪により官爵を剥奪された[4][5]。
8月、吐蕃の大将の坌達延と乞力徐らが兵10万を率いて洮州に侵攻し、さらに蘭州と渭州の渭源県に進軍して、群牧を略奪して去った。薛訥は無官のまま左羽林軍将軍を兼ね、隴右防禦使となり、太僕寺少卿の王晙らとともに兵を率いてこれを迎撃した。10月、薛訥は兵を率いて渭源にいたり、吐蕃軍と武階駅で遭遇して戦った。王晙と前後呼応して挟撃し、吐蕃軍を撃破した。洮水まで追撃し、さらに長城堡で戦った。豊安軍使の王海賓が先鋒として奮戦し戦死した。唐の将士は勝勢に乗じて進撃し、さらに吐蕃軍を破り、1万人を捕殺し、吐蕃の将の六指郷弥洪を捕らえ、略奪された羊や馬を奪回し、吐蕃の兵器を鹵獲した。12月に玄宗が吐蕃へ親征する予定であったが、薛訥らの勝利が奏聞されて、親征は中止された。薛訥は左羽林軍大将軍に任じられ、平陽郡公に封じられた[6][7]。開元3年(715年)4月、涼州鎮軍大総管となった。10月、朔方道行軍大総管に転じた[8]。ほどなく老齢のため、致仕を許された。開元8年(720年)、死去した。享年は72。太常寺卿の位を追贈された。諡は昭定といった[9][7]。
子女
評価
玄宗:その家は代々名将を輩出し、国朝の元勲である。知恵は泉のごとく湧き出で、気概は雷電を横切るかのごとし。朝廷にあっては寛容でありながら策略に富み、軍陣にあっては勇敢でありながら屈することがない。[12][13]
蘇頲:勲閥の良将、国家の老臣。太公望の立言を読み、司馬穰苴の法を継ぐ。徳業は奥深く、その高邁さは容易に窺い知れず、智謀は広大遠大で、泉の水源が尽きないかのようである。かつては、あたかも秦の孟明視が敗れた後もその功績を待たれたごとく、罪を赦されて後の活躍が期された。ついに隴上に長駆し、湟中に深く入り、かの犬戎を殲滅し、その毒牙を砕いた。野に遺棄された賊はなく、朝廷には盛大な功績があった。故に、将軍の任にふさわしく、その重責を光栄あるものとすべきである[14]……ある者は出将入相して経世済民の才を持ち、ある者は詩書を学んで兵法の計略を備え、ある者は霍去病が漢に仕えて匈奴を防いだ功のごとく、ある者は由余が秦に入り戎を討つ策を献じたごとくである。[15]
独孤及:当時の論者は、知運(李知運)と郭虔瓘、王晙、薛訥を併せて中興の名将と称した。今に至るまで隴上の将士たちは彼らを偲び、ある者は故城に祠宇を建て、遺された堡塁に登っては彼らを祭り祀る者があるという。[16][17]
劉粛:郭元振、薛訥、李適之らは、みな辺境で功績を立て、朝廷の中枢に参与した。[18]
劉昫:王孝傑、唐休璟、張仁願、薛訥、王晙らは、皆、武略の才能を内に秘め、たびたび辺境での功績を立てた……先に敗れて後に勝つ、薛訥、何ぞ恥じることがあろう……民を救おうとする心は、顔色に表さず。将相の器量、人は何をもって測ることができよう。臣として終始全うし、功績に過ちはなかった。多くを忌避した梁公(狄仁傑)は、自ら慙徳(恥じる心)を招いた。唐・張・訥・晙は、陣を善くする能き師である。共に戎虜を服従させ、辺境を憂えることなし。[19]
