藤岡範士
From Wikipedia, the free encyclopedia
父は太平洋戦争中に戦死し、哲也は異父弟に当たり、後に範士は養子に出て藤岡姓となる[1]。
中学卒業後に京都・久保道雄厩舎で騎手候補生となり[1]、1965年に同厩舎とからデビュー。哲也も騎手候補生となった範士にならい、中学3年時に中央競馬騎手養成長期課程を受験し、騎手課程修了後は範士の紹介で京都・鈴木和雄厩舎の所属騎手となっている[1]。
1年目の1965年は3月28日の阪神第3競走障害5歳以上70万下・グランドオペラ(9頭中6着)で初騎乗を果たすと、6月12日の阪神第7競走5歳以上50万下・ハトウで初勝利を挙げる[2]。
1966年には阪神・土門健司厩舎に移籍し、1970年にはオープンツバメで北九州記念・小倉記念と夏の小倉の重賞を連勝[3]。
1971年から1972年にはシンモエダケの主戦騎手として活躍し[4]、1971年の阪神3歳ステークスはヒデハヤテから8馬身差2着[5]に終わるが、明けて1972年のシンザン記念では後にNHK杯を勝つランドジャガーら牡馬を相手に後方一気の差し切り勝ち[4] [6]。阪神4歳牝馬特別も制して年明け3連勝とし、桜花賞では1番人気に推されたが、後方から差を詰めただけの7着に完敗[4] [6]。秋はビクトリアカップで桜花賞馬アチーブスターの3着、阪神牝馬特別でも3着であった[4]。
1972年には後に「九州産馬の天皇賞」と形容される[7]霧島賞をサンコオーアリスで制す[8]。
1975年2月16日の京都第10競走5歳以上200万下・アヤヒデが最後の勝利となり、同22日の中京第8競走たちばな賞・オサイチホマレ(7頭中4着)を最後に現役を引退[9]。
引退後の1975年に調教師免許を取得し、1976年7月に開業[10]。
1年目の1976年は7月24日の小倉第11競走4歳以上600万下・オサイチシプリ(10頭中4着)で初出走を果たすと、翌25日の小倉第7競走4歳未勝利・チェスターヒットで初勝利を挙げる[11]。
初年度は3勝[12]に終わるが、2年目の1977年には2月13日の京都で初の1日2勝[13]を挙げる。8月21日の小倉第7競走小倉障害ステークス・チェスターホーマーで初の特別勝ち[13]を挙げ、同馬では京都大障害(秋)2着[14]に入るなど、初の2桁勝利となる10勝[12]をマーク。
1979年には3月31日・4月1日の阪神で初の2日連続勝利[15]を挙げ、同年は2年ぶりの2桁となる14勝[12]をマークし、1981年まで3年連続2桁勝利[12]を記録。
1980年にはオサイチセビルが北九州記念2着[16]に入り、1981年からは弟の哲也が騎手として[17]、1982年からは後に「父であり人生の師匠」と尊敬するようになる野中賢二が厩務員として所属[18]。
1983年の阪神障害ステークス(春)ではオサイチセンチュリがキョウエイウオリアの2着[19]に入り、1990年には自身初の20勝台となる22勝[12]、1993年と1996年には自己最多の30勝[12]をマーク。
1993年には京都で行われた中日スポーツ賞4歳ステークスでエヌティウイナーがネーハイシーザー・トーヨーリファールに次ぐ3着[20]に入り、1994年には父ラグビーボール・母父リードワンダーのグッドラックスターが桜花賞5着[21]と健闘。
1997年には明け8歳になったエスジーフラットが中山金杯でベストタイアップ・マウンテンストーンに次ぐ3着[22]、2000年にはキンシストーンがクリスタルカップでアグネスデジタルに先着の2着[23]に粘った。
1999年からは愛弟子の松本達也が所属騎手となり、松本を主戦に、後は千田輝彦・角田晃一を振り分けて賄うようになる[10]。
2001年には松本が騎乗していた[21]グッドラックスターの全妹[24]タフネススター[25]がゲートの不安を問題にしないくらいの豪快な末脚を武器に下級条件を連勝し、最下級条件を連勝して挑んだカブトヤマ記念は2クラス飛び越えての格上挑戦になったが、48kgの軽ハンデも手伝って、豪快な追い込み勝ちを決めた[26]。藤岡にとっては25年目での重賞初勝利[10]が唯一の重賞勝利となり、出張先で同年初依頼[10]の酒井学にとっても重賞初勝利[27]であった。通常なら福島で行われる名物レースが、同年は改修工事で新潟開催になったことにより、酒井は出身地での初の重賞初タイトルとなった[27]。
次走のエリザベス女王杯は松本にとって最後のGI騎乗[28]となったが、流石に相手が強く[26]7着[28]に終わった。松本最後の重賞騎乗となった中日新聞杯では3着[28]、武幸四郎が騎乗した愛知杯2着[25]、小林徹弥が騎乗した新潟大賞典2着[25]と牡馬を相手にもヒケを取ることはなかった[26]。
藤岡は高額馬は馬主の負担を大きくするだけと好まず、関係馬主では永井啓弐・大迫忍・八木良司から何度となく先方から話を持ち込まれていたが、「高い馬は他厩舎へ、私の方は安い馬で結構ですから」と頑なに拒み続けてきた[10]。一般的になっている1000万円級でさえ稀にしか在籍しおらず、外国産馬であっても、価格の面では極安であった[10]。2001年当時ではサンデーサイレンス産駒も、37頭の管理馬中で2歳牝馬唯一頭といった按配であり、ベストテン上位の騎手を起用したのは武豊で3番人気12着に終わったドゥーマイベストのたった一度であった[10]。
タフネススターのカブトヤマ記念では馬主が音頭を取って祝勝会が催され、周囲を取り巻いた馬主、来賓客の中に厩舎従業員一同が入る形の席の配置であり、支援してくれる馬主達の温かい思いがストレートに伝わり感動するスタッフを目のあたりにした[10]。
2013年12月8日の中京第3競走3歳以上500万下・スナーククラウンが最後の勝利[29]、2014年2月24日の東京第4競走障害4歳以上未勝利・リアルブラック(競走中止)が最後の出走[30]となり、2014年2月28日をもって引退[31]。
騎手成績
調教師成績
| 通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平地 | 569 | 516 | 508 | 4614 | 6207 | .092 | .175 |
| 障害 | 26 | 31 | 37 | 214 | 308 | .084 | .185 |
| 計 | 595 | 547 | 545 | 4828 | 6515 | .091 | .175 |
- 主な管理馬
- タフネススター(2001年カブトヤマ記念)