西ジャワ州

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座標 南緯6度45分 東経107度30分 / 南緯6.750度 東経107.500度 / -6.750; 107.500座標: 南緯6度45分 東経107度30分 / 南緯6.750度 東経107.500度 / -6.750; 107.500
面積 35,377.76[1] km²
西ジャワ州
Jawa Barat
州の標語: "Gemah ripah repeh rapih"
座標 南緯6度45分 東経107度30分 / 南緯6.750度 東経107.500度 / -6.750; 107.500座標: 南緯6度45分 東経107度30分 / 南緯6.750度 東経107.500度 / -6.750; 107.500
州都 バンドン
知事 デディ・ムルヤディ英語版
面積 35,377.76[1] km²
人口 48,274,162人(2020年国勢調査[2]
人口密度 1,364.5人/km²
民族 スンダ人 (79%), ジャワ人 (10%), チルボン人 (7%), ブタウィ人 (4%)
宗教 イスラム教 (97%), キリスト教 (1.81%), 仏教 (0.58%), 儒教 (0.22%), ヒンドゥー教 (0.05%), スンダ人の原始宗教など
言語 スンダ語インドネシア語
時間帯 WIB (UTC+7)
ISO ID-JB
公式サイト jabarprov.go.id
西ジャワ州

Jawa Barat
地方言語翻字
  スンダ文字 ᮏᮝ ᮊᮥᮜᮧᮔ᮪
  スンダ語アルファベット Jawa Kulon
  ペゴン文字 جاوا كولَون
  チャチャラカン ꦗꦮꦏꦸꦭꦺꦴꦤ꧀
Gedung Sate(州庁舎)
Gedung Sate(州庁舎)
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西ジャワ州(にしジャワしゅう、インドネシア語: Jawa Baratスンダ語: ᮏᮝ ᮊᮥᮜᮧᮔ᮪)はインドネシアの州。ジャワ島西部に位置する。州都はバンドン。西ジャワ州はバンテン州ジャカルタ首都特別州が西に、中部ジャワ州が東に隣接しており、北はジャワ海、南はインド洋に面している。ジャワ人に次いで2番目に人口の多い民族であるスンダ族の原郷でもある。

西ジャワ州はインドネシア独立宣言の後にできた最初の8州のうちの1つであり、その後1950年7月14日に法的に再設された。1966年に州と同じ地位の『首都特別州』(Daerah Khusus Ibukota) としてジャカルタが分割され[3]、同様に州の西部も 2000年にバンテン州となる形で分割された。

これら2州が分割された後も2020年中期時点で西ジャワ州の人口は49,935,858人とインドネシア国内で最多の州となっている [4]。州最大の都市であるブカシバンドンはインドネシアでそれぞれ3位、4位の人口を誇る都市である。ジャボデタベック都市圏内の衛星都市としてブカシは非常に急速な人口増加を経験し、2012年に州都のバンドンを上回るまでになった。それでいながらジャカルタの衛星都市ブカシ、デポックがそれぞれ世界で7番目、10番目に人口の多い地域である一方でバンドンは世界で最も人口密度の高い市域となっている[5]

西ジャワ州庁舎(グドゥンサテ


アニエールでの考古学的発見は、紀元前1千年紀以前に青銅および鉄の金属文化が存在していたことを示している。先史時代のブニ期(古代ブカシ)の土器は、アニエールからチルボンに至る地域にかけて分布しているとされる。

5世紀の西ジャワ地域は、タルマナガラ王国の一部であった[6]。同王国の碑文は西ジャワ各地に分布している。パッラヴァ朝期に用いられた文字およびサンスクリット語で記された碑文が7点確認されており、その多くは王の事績を伝えている[7]

タルマナガラ王国の崩壊後、西部ジャワ島ウジュン・クロンからスラユ川に至る地域は、スンダ王国が継承したとされる。同王国期の碑文の一つに、932年のケボン・コピ2世碑文がある。都はパクアン・パジャジャラン(現在のボゴール)に置かれていた。

16世紀に入ると、デマク王国が経済的・政治的な競合勢力として台頭した。チルボン港(のちのチルボン市)はその影響を受けてスンダ王国から離脱し、やがてチルボン王国として独立した。さらにバンテン港もチルボン王国の支配下に入り、後にバンテン王国へと発展した。

これに対し、スンダ王スリ・バドゥガ・マハラジャは、王子スラウィセサマラッカのポルトガル人と防衛協定を結ばせるため派遣した。主要港スンダクラパ(現在のジャカルタ)がチルボン王国およびデマク王国の手に落ちることを防ぐことが目的であった。スラウィセサが王位に就いたのち、1512年にスンダ・ポルトガル防衛協定が締結された。この協定は「スンダ・ポルトガル条約碑文」(パドラン・スンダ・クラパ)によって記念されている。ポルトガル側はスンダ・クラパに要塞および倉庫を建設し、貿易を行う権利を得た。1522年にはチリウン川河畔に石碑(padrão)が建立された。

しかし、1527年にファタヒラインドネシア語版率いるチルボン・デマク連合軍がスンダ・クラパを攻撃・占領し、協定は実行されなかった。両勢力間の戦闘は5年間続き、1531年にスラウィセサとスナン・グヌン・ジャティとの間で和平が成立した。

1567年から1579年にかけて、ムルヤ王(プラブ・スリヤ・クンチャナ)の統治下でスンダ王国はバンテン王国の圧力により大きく衰退した。1576年以降、王国はパクアン・パジャジャランを維持できなくなり、最終的にバンテン王国に征服された。バンテン王国統治期には、プリアンガン地域(西ジャワ南東部)がマタラム王国の支配下に入った。

西ジャワ州(インドネシア語: Provinsi Jawa Barat)は、1926年にオランダ領東インド政府により自治州として設置された。これは地方分権および行政再編の一環であり、1926年1月1日に官報(スターツブラッド)第326号によって施行された。その後、1928年の第27号・第28号・第438号、1932年の第507号によって再確認された[8]

この州設置は、1922年の行政改革法(Bestuurshervormingwet)の施行によるものであり、オランダ領東インドを州単位に区分したものである。1925年以前は、「スンダ地方(Soendalanden)」またはパスンダンという地理的名称が、ジャワ島西部を指す語として用いられていた。この地域の住民の多くはスンダ語を母語としていた。

1945年8月17日、西ジャワはインドネシア共和国の一部となった。州都はたびたび移転している。最初の州都は1945年8月19日にバンドンに置かれた[9]が、1947年7月21日にタシクマラヤのインディヒアンへ移転した[10]。その後、レバク・シウ、クラムガタワンバンテンへと移された。ラデン・マス・セワカは第一次オランダ軍事行動中に拘束された。1948年8月17日には州都はワナヤサへ移転した[10]。このときオジャ・ソエマントリは西ジャワ共和国政府(PRJB)を樹立した。PRJBはレンヴィル協定を拒否したが、独立宣言の精神には忠実であるとした。その後、州都はスバンへ移転した。これは第二次オランダ軍事行動に伴う安全確保のためであった。

1949年12月27日、西ジャワはパスンダン国となり、インドネシア連邦共和国を構成する国家の一つとなった。これは円卓会議における合意の結果である。1950年に西ジャワは再びインドネシア共和国へ編入された。

行政区分

人口統計

交通インフラ

脚注

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