西郷従道家

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西郷家
本姓 藤原北家菊池氏庶流肥後西郷氏庶流
家祖 西郷従道
種別 武家
士族
華族伯爵侯爵
出身地 薩摩国鹿児島藩
主な根拠地 薩摩国鹿児島藩
東京市目黒区上目黒[1]
東京都目黒区駒場
著名な人物 西郷従道
凡例 / Category:日本の氏族

西郷従道家(さいごうつぐみちけ/さいごうじゅうどうけ)は、武家士族華族だった日本の家。西郷従道西郷隆盛家から分家して創設した家で[2]、従道の勲功により華族侯爵家に列せられた[3]。なお本家である西郷隆盛家も隆盛の勲功により侯爵家に列せられているので「西郷侯爵家」は2家存在した[4]

西郷従道元帥・海軍大将

西郷従道は、薩摩藩士吉兵衛隆盛(嘉永5年9月27日没)の三男として天保14年(1843年)に生まれた。初名は隆興。西郷吉之助隆盛(大西郷、初名隆永)は16歳年上の兄である[5][6]。生家である西郷家は、南朝忠臣の勤皇家として知られる菊池氏の分流である肥後西郷氏の庶流と伝わる[7][6]。同家の歴史や先祖については西郷隆盛家を参照のこと。

従道ははじめ茶坊主として薩摩藩に仕えていたが、万延元年に還俗し[8]、西郷慎吾と改名し、兄吉之助隆盛とともに国事に奔走し、戊辰戦争における賊徒掃討の功により、明治2年(1869年)に賞典禄として金300石を下賜された[9]

山縣有朋とともに欧州を視察して帰国後には兵部省に出仕して陸軍大輔となる。明治4年から従道と改名し、同年に陸軍少将、明治7年(1874年)には陸軍中将に進み、征台の役では征討都督として征討軍全軍の総指揮をとり戦功をあげた[1][3]。明治11年に参議、文部卿に就任し、さらに陸軍卿、農商務卿などを歴任[1][3]

内閣制度が発足すると第1次伊藤内閣から第2次山縣内閣までの歴代内閣において、海軍大臣農商務大臣内務大臣陸軍大臣などを歴任。特に海軍大臣として活躍した[1][3]。明治17年(1884年)7月に勲功により華族伯爵に列せられた。明治27年(1894年)に海軍大将に昇進し、日清戦争では海軍大臣として戦功があったため、明治28年(1895年)8月に侯爵に陞爵。明治31年(1898年)には元帥府に列した[1][3]

明治35年(1902年)7月18日に従道は死去したが、従道の長男従理(じゅうり、明治7年生、明治17年12月10日没)は早世していたため、次男従徳(じゅうとく、明治11年10月21日生、昭和21年2月6日没)が同年8月9日に爵位と家督を相続。従徳は陸軍歩兵大佐まで昇進した陸軍軍人である[10]日露戦争では功四級を賜る[11]東京府多額納税者だった[11]。従徳の夫人豊子岩倉具定公爵の次女[10]。豊子の姉は東伏見宮依仁親王に嫁いだ周子妃である[12]

従道の三男従義は上村艦隊に所属して日露戦争に参戦し、男爵上村彦之丞海軍大将の養子となっている。その夫人浪子は伯爵山本権兵衛元帥・海軍大将(内閣総理大臣)の四女である[13]

従道の四男従志は、宮内省主馬寮に勤務し、小松重春伯爵(小松帯刀伯爵家)の養子に入った。その夫人千代子山口圭蔵陸軍中将[13]

従徳の長男従吾(じゅうご、明治36年5月19日生、昭和55年6月14日没)も父同様に陸軍大佐まで昇進した陸軍軍人である[10]。従吾の夫人静子池田仲博侯爵(徳川慶喜公爵五男)の三女である[10]

従徳の次男従純は、古河財閥古河虎之助男爵の養子となっている[12]

従徳の六男従達黒木三次伯爵の養子に入り、昭和55年(1980年)時には東宮侍従長を務めていた[13]

従吾の長男従紀は早世していたため、従吾の跡は従節(じゅうせつ、昭和16年9月4日生)が継いだ。従節は、富士通システム総研取締役などを務めた実業家である[10]。従節の夫人景子宮野正四の長女。従節の代の平成前期の住居は東京都目黒区駒場にあった[10]

従節の長男に従洋(じゅうよう、昭和43年9月15日生)、次男に西郷従英(じゅうえい、昭和47年10月15日生)がある[10]

西郷従道侯爵邸

目黒区青葉台二丁目周辺は、「西郷山」という別名で呼ばれている。これは、明治初期に従道が2万坪の土地を購入して名園を作り、洋館と和館の豪邸を構えたためである。この土地は、征韓論論争で下野した兄隆盛のために従道が購入したものである[14]

直情・至誠の人だった兄隆盛に比べると冷静で柔軟性があった弟従道は、征韓論論争で兄が下野した時も追随はせず、政府に残ったが、やがてこの土地に兄を迎えて共に暮らすつもりで、征台の役の時に明治天皇から賜った下賜金で購入したものだと清子夫人が証言している。そんな従道にとって、兄の挙兵は予想外であり、無念なことだったと思われる[15]

明治22年(1889年)には明治天皇の行幸も賜った。この邸宅と土地は、従徳の代にも西郷侯爵家の本邸として使用されてきたが、昭和16年(1941年)に至って従徳が渋谷に転居した際に手放し、所有権は国鉄に移っている。和館は戦時中に空襲で焼失したが、洋館は残り、昭和38年(1963年)に愛知県犬山市の「明治村」に移築されて現存している[14]

円弧を描いて張り出したベランダが特徴的な洋館で、ベランダの軒や切妻屋根の破風に付けられた切り抜き板張りが繊細にデザインされている[16]。設計はお雇い外国人のフランス人建築家ジュール・レスカス。レスカスは耐震性を重視した建築家で、この洋館も屋根に重い瓦を使わずに軽い銅板を敷くことで軽量化を図ったり、柱と横木の対角線に補強材を付ける筋交構造を用いるなど工夫が凝らされている[15]。またレスカスはパリで建築金物店の輸入販売代理もしていたことから、邸内は様々な外来品で装飾されており、それも見どころとなっている[15]

系図

脚注

参考文献

関連項目

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