西雅雄
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岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身[1]。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している[2]。
西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。修学旅行の帰りの汽車で西から教えられた大杉栄・荒畑寒村が創刊した『近代思想』などに心を奪われ、宇野の人生観を大きく変えた[2]。
一方、早稲田文学の購読者であった西は、文学普及会の縁で早稲田大学へ来ないかという相馬御風の誘いを断り、高梁中学を卒業後すぐに兄のいた朝鮮に渡り、江原道の春川の役所に一年余り勤めた。岡山と朝鮮の春川とを行き交った宇野と西の葉書による「読書の通信」は、西雅雄の文学青年から社会主義への方向転換を示すとともに、宇野の社会主義熱をも徐々に増幅させていった[2]。
その後、上京して秀英舎の文選工となる。1921年「社会主義研究」の編集主任となり、1922年(第一次)日本共産党に入党、機関誌『マルクス主義』の編集者。のち南満州鉄道勤務、1942年満鉄調査部事件で検挙され、獄死。