調神社
埼玉県さいたま市浦和区にある神社
From Wikipedia, the free encyclopedia
祭神
歴史
創建
社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたという。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとする。さらに宝亀2年(771年)6月20日には勅使として藤原朝臣常恣が奉幣を行ったので、これが例大祭(現在は新暦7月20日)の起源になったと伝える[3][8][2]。
上記伝承の真偽は定かでないが、『式内社調査報告』等に於いても社名に「調」が見えることから、朝廷への調物(貢ぎ物・御調物)を納める御倉が調神社の前身になったと想定している[3][8][1]。関連伝承として調神社の七不思議のうちに「鳥居が無いこと」があり、その中で倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる[3]。そして伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771年)には武蔵国の所属が東山道から東海道に変更されていることから[9]、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている[3][8]。
以上とは別に、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もある[3]。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘される[3]。当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされる[10]。そのほか、境内に多い槻の木(ケヤキ)と「調」を関連付ける説[11]もある[12]。
概史

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、武蔵国足立郡に「調神社」と記載され、式内社に列している[3]。
中世からは、「調」が「月」と同じ読みであることから、月待信仰と結びつくようになった[1]。延元2年/建武4年(1337年)には足利尊氏の命で一色範行による社殿の復興があったが、天正18年(1590年)には小田原征伐に伴う兵火で焼失したという[1]。
江戸時代、慶安2年(1649年)には徳川家光から朱印地7石が寄進された。この朱印状には「月読社」と記されているが[1]、『調宮縁起』ではこの社名は誤りと記されている。しかし、その後の朱印状にもこの社名は継続して使われている。
別当寺は月山寺であり、玉蔵院が兼帯した。月山寺には二十三夜堂が設けられ、月天子の勢至菩薩が本尊としてまつられた[1]。
『江戸名所図会』にも登載され、文人墨客もこの月待・月読の神を知ってか数多く参詣している。中でも寛政3年(1791年)4月11日には、俳人小林一茶が深い森の中に鎮まる「月よみの宮」に額突いたことを『紀行』(一茶全集第5巻)に書いている。また、旅を好んだ僧の津田大浄は、文政2年(1819年)に『遊歴雑記』に「二十三夜の宮と称す(中略)社の造営善尽し、美尽し、内のかざり心々の奉納の品々夥しく、辺鄙の駅路にくらぶれば目を驚かせり」と社頭の繁栄を記している[13]。また、文化4年(1807年)から天保5年(1834年)までの間に江戸の郊外を旅した徳川清水家の御広敷用人の村尾正靖(号は嘉陵)は、記録の中で「勢至菩薩の森だという。本社、拝殿はみな銅葺き屋根で、建物全体を朱に塗って、瑞籬をめぐらしている(中略)社の造りが仏教的でないので、往古には神を崇めていたものを、後になって仏に祀り変えたものであろう」と当時の様子を記している[14]。
天保10年(1839年)には、国学者の平田篤胤が当社を参拝して『調神社考証』を著しているが、その著に於いて、当社は伊勢神宮に納める初穂を入れる倉庫から発展した神社であるとした。


