赤塚正助
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鹿児島県姶良郡蒲生村[4](現在の姶良市)に旧薩摩藩士[2]・赤塚源太郎の三男として生まれた[4]。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業[5]。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し[2]、廈門領事、釜山領事、マニラ領事[6]、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した[7]。やがて奉天総領事に転じ、関東都督府参事官と朝鮮総督府事務官を兼任した[4]。奉天総領事として張作霖との交渉を担当した[4]。1923年(大正13年)、駐オーストリア公使に任命され、駐ハンガリー公使も兼ね[8]、1926年(大正15年)まで務めた[9]。
退官後の1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(鹿児島県第2区、立憲民政党)に出馬して当選し[10]、衆議院議員に1期在任した[3]。床次竹二郎と行動を共にした[11]。1930年(昭和5年)2月、第17回総選挙(鹿児島県第2区、立憲政友会公認)では次点で落選した[12]
