趙・匈奴の戦い
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趙の孝成王の時代、趙の北方の代・雁門に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任に李牧がついていた[1]。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・篭城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた[1]。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである[1]。
そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる[1]。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので任を解かれた[1]。
李牧の後任者は匈奴に討って出たが、被害が増大し、国境は侵された[1]。そのため趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した[1]。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった[1]。