函谷関の戦い (紀元前298年) From Wikipedia, the free encyclopedia 函谷関の戦い 戦争:合従攻秦の戦い 年月日:紀元前298年 - 紀元前296年 場所:函谷関 結果:合従軍が函谷関に攻め入り、秦が和を求めた 交戦勢力 斉韓魏 秦 指導者・指揮官 匡章 羋戎 戦力 300,000 数十万 損害 不詳 不詳 春秋戦国時代 春秋時代 西周† 鄶† 牛首 譚† 泓水 城濮 遂† 邲 鄢陵 鳩茲 萊† 柏挙 斉 晋陽 戦国時代 陽翟 鄭† 桂陵 襄陵 馬陵 函谷関 函谷関 伊闕 宋† 済西 即墨 鄢郢 華陽 閼与 陘城 長平 西周公・東周† 東周公† 河外 趙・匈奴 函谷関 蕞 成蟜 衍氏 秦の統一戦争 鄴 平陽 肥下 番吾 韓† 趙† 魏† 城父 楚† 燕・代† 斉† †はその国の滅亡 表示 表示 函谷関の戦い(かんこくかんのたたかい)は、紀元前298年から紀元前296年に発生した、斉・韓・魏の三国合従軍が秦を攻めた戦い。 紀元前299年、秦と趙は盟を組み、斉と断交した。秦の相で斉の公子の孟嘗君は斉に逃避した。 紀元前298年、孟嘗君の指揮下で斉と韓・魏が合従し秦を攻めた。函谷関まで攻め入り、秦軍は函谷関を死守した。 紀元前297年、三国は継続して函谷関を攻めた。 紀元前296年、三国合従軍は函谷関に攻め入り、塩氏城を占領した。秦は合従軍に和を求め、魏に封陵(中国語版)を、韓に武遂を割譲した[1][2]。 当時、趙と宋と秦は盟を結んでいて、合従軍には加わらなかった。しかし、趙は中山の攻略戦(中国語版)により、秦へ援軍を派遣できなかった。燕は斉に亡国(中国語版)の仇があった。三国合従軍は函谷関の戦い後、斉将の匡章が率いる軍によって、燕軍を大敗させた[3]。楚の懐王が秦に騙され、幽閉されたまま死去した。しかし、紀元前301年に斉・韓・魏の三国合従軍が垂沙の戦い(中国語版)で楚軍を大敗させたため、合従に参加しなかった。 斉は勝利を獲得したが、大きな利益を得ることが出来なかった。韓・魏は秦の恨みを買い、紀元前294年、白起率いる秦軍に伊闕の戦いで大打撃を受けた。 脚注 ↑ 《史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。 ↑ 《資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。 ↑ 《戦国策 巻二十九 燕策一》,蘇轍認為司馬穰苴如《戦国策》所説,是斉湣王時期的斉将。《史記》拠伝聞,称司馬穰苴是春秋斉景公時期的斉将,但斉景公時斉国和燕国並没有戦争,当以《戦国策》和蘇轍考証為是。 関連項目 函谷関の戦い 合従連衡 戦国時代の戦闘一覧 (中国) 表話編歴春秋戦国時代(春秋時代・戦国時代)国 春秋十二列国 魯 斉(姜斉) 晋 秦 楚 宋 衛 鄭 陳 蔡 曹 燕 呉 戦国七雄 秦 楚 斉(田斉) 燕 趙・代[1] 魏 韓 他 越 中山 杞 曾 邾 滕 唐 栄 単 沈 頼 英 六 庸 邢 萊 古蜀 周王朝 西周公 東周公 戦闘 春秋 泓水の戦い 城濮の戦い 邲の戦い 鄢陵の戦い 柏挙の戦い 晋陽の戦い 戦国 桂陵の戦い 馬陵の戦い 鄢・郢の戦い 閼与の戦い 長平の戦い 統一戦争 韓攻略 趙攻略 魏攻略 楚攻略 燕・代攻略 斉攻略 諸子百家 諸子 孔子 老子 荘子 墨子 孟子 荀子 韓非子 孫子 列子 楊朱 百家 陰陽家 儒家 墨家 法家 名家 道家 縦横家 雑家 農家 小説家 兵家 関連項目 東周 史記 春秋左氏伝 戦国策 春秋五覇 戦国四君 戦国四大名将 東周列国志 注釈 ↑ 代は趙の亡命政権であり、秦に滅ぼされた。 Related Articles