済西の戦い

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済西の戦い
戦争:済西の戦い
年月日紀元前284年
場所済水以南
結果軍の主力が壊滅的被害を受ける。王都の臨淄が落ち、湣王が殺される。斉の領域は即墨の2城のみとなる。
交戦勢力





[1]
指導者・指揮官
楽毅
淖歯 
湣王 
田觸
田達 
戦力
約六十万 数十万
損害
不詳 全滅
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

済西の戦い(さいせいのたたかい)は、紀元前284年の名将の楽毅が総大将となり、の五国合従軍に大勝した戦い。

戦国時代中期、とともに東帝・西帝を名乗るほどに栄えていた。隣国で弱小国のでは紀元前318年燕王噲は国相の子之に譲位し、太子平中国語版との王位継承争いが起こった[2]。斉の宣王紀元前314年、燕の公子職(後の昭王)の援助を名目に、燕に侵攻し五十日で燕を破り中国語版、燕王噲と子之を殺した[3][4]。しかし、燕は斉軍に焼かれ略奪された。燕国民が紛起し、各国も燕の救援ために出兵の準備を行っていた。そのため斉軍は撤退した[5]武霊王は燕の内乱に応じて楽池を将として燕王噲の庶子である公子職を燕に送り、昭王として即位した[6]。昭王は即位後、賢士を招くため内政を改革し、産業を発展させ、父王の仇でもある斉に復讐する準備をしていた。紀元前301年、宣王が死に、子の湣王が即位した。斉軍は南のや西の三晋・趙)に連年攻撃し、国力を消耗していった[7]。昭王は斉を攻撃する機会をうかがっていたが、土地・人口や経済力では燕は斉に劣っているため、燕単独では斉に勝つことは不可能だった[8]。この状況下で燕の将軍楽毅は他の国との関係を確立し、斉を孤立させるように提案した。斉に宋を滅ぼさせて、各国との関係を悪化させて合従軍をくみ、斉を滅ぼすという策略を燕昭王は採用した[9]

この為に、燕は斉に表面上に降伏し、蘇秦を斉に入国させて離間活動を行いつつ、湣王の信任を得た。斉は北方の燕との国境の警備を緩めた。紀元前288年10月、秦の昭襄王と斉王が同時に帝を名乗り同盟が結成された。蘇秦は湣王に斉と秦の盟約を破り、帝号を廃し、宋を滅ぼす機会を伺うように提言した。湣王は提言を聞き入れ、十二月に帝号を廃し、代わりに秦の昭襄王の帝号を廃し、他国に秦を攻撃するように求めた[10][11]。湣王は秦に勝利を収めたあと、宋を滅ぼすために出兵した[12]。しかし、斉による宋の攻撃、滅亡は斉と秦・趙の関係だけでなく、韓・魏・楚にも大きな脅威と映るようになった。

過程

影響

脚注

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