伊闕の戦いの大勝により、秦は韓と魏の両国を侵攻し続けた。紀元前292年、白起は大良造となり、軍を率いて魏を攻め魏城(現在の山西省運城市永済市の東)や垣邑(現在の山西省運城市垣曲県の南東)など大小62城を取った。紀元前291年、白起は韓を攻め宛(現在の河南省南陽市宛城区一帯)や葉(現在の河南省平頂山市葉県の南)を取った[12]。紀元前290年、左更の司馬錯が魏の軹(現在の河南省済源市の南東)と韓の鄧(現在の河南省焦作市孟州市の西)を取り[13]、白起とともに垣邑を再び攻め落とした[14][15]。秦により次々と領土を奪われ魏と韓は和平を余儀なくされた。魏は河東郡の四百里、韓は武遂(現在の山西省臨汾市の南西)の地の二百里を割譲した[16]。紀元前289年、秦は再び魏を攻めた。司馬錯は河雍(現在の河南省焦作市孟州市の西)[17]など河内郡の大小61城を取った[18]。白起は蒲阪(現在の山西省運城市永済市の北)と皮氏(現在の山西省運城市河津市の西)を取った[19]。秦の攻勢に直面し、魏は恵文王と趙の相国の李兌(中国語版)()に賄賂を送り、秦の侵攻に対する趙の援助を求めた[20]。
伊闕の戦いの後、秦は西周国に攻撃する機会を得た。西周の公子周最が李兌に派遣した使者が「今、秦が魏を破って周を攻めようとしています。これこそ趙にとっては勢力拡大の機会です。まず、趙は秦が攻めようとしている西周を守るのが何よりです。ここにおいては、双方とも魏を攻めないことにしましょう。すると、秦は周を攻めても土地は手に入らず、しばらく経つと疲弊して、撤退するでしょう。秦はまだ魏とは講和を結んでおりません。そこで、秦は周から軍を引けば、また魏を攻めて、両国とも疲弊します。もしも、秦と魏が講和を結ぶならば、趙はその仲介役を果たし、両国間における趙の勢力は重くなりましょう。どちらになっても趙の勢力はより大きくなるはずです」と説いた[21]。西周君は周足を使者として秦に派遣し[22]、自身は魏の昭王に援助を求めた。しかし、昭王は上党郡の危急を理由に援助を拒んだ。西周君在回国途中路過魏国的梁囿,十分喜愛。大臣綦毋恢指出魏国的温囿不比梁囿差,並向西周君自薦説不但能得到魏国的援助,還能得到温囿。綦毋恢游説魏昭王指出魏国如不援助西周,那西周将投靠秦国,如此両国合兵進囲南陽(太行山以南),将切断韓・魏両国通往上党郡的要道。如魏王答応派3万人幇助西周駐守辺境,並将温囿以毎年120金的価格租給西周君,那西周便不会投靠秦国。如此既可保証上党郡的安全,也可通過租借温囿多獲得40金的租金。魏昭王采納綦毋恢的建議,派芒卯献出温囿,又答応派兵幇助西周駐守辺境[23]。西周国は外交活動により、秦は西周国の攻略に失敗した。
秦は伊闕の戦いの後、伊闕に駐留した。昭王は公孫衍を使者として和平した。有人建議魏昭王加封竇屡為関内侯,譲竇屡出使趙国割譲少量土地賄賂趙国的奉陽君李兌,譲李兌従中調停引起秦国内部争執,如此魏国也可少割土地[10]。西周大臣綦毋恢也勧説公孫衍不要多割地給秦国,因如両国議和成功,魏国就会得到秦国的支持;如両国議和失敗就会重新開戦,多割地属毫無意義之挙[24]。
紀元前290年、韓の成陽君(中国語版)と東周君が秦に来朝し、和を求めた[25]。しかし、秦は韓に侵攻していたため成陽君は韓に帰国できず、斉に亡命した[26]。