足利義助
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天文10年(1541年)、平島公方・足利義維の次男として、阿波の平島で誕生した。母は周防の守護大名・大内義興の娘[2]。
永禄9年(1566年)9月23日、兄の義栄が畿内へ渡海して、摂津の越水城に入城した[4][5]。このとき、義助は父の義維とともに阿波から渡海し、義栄に同道する形で越水城に入っている[5]。
永禄11年(1568年)10月、兄の義栄が腫物により死去した。義栄の幕府の崩壊により、義助は父の義維とともに、阿波の平島に帰還した[6]。
天正元年(1573年)10月8日、父の義維が死去し、義助は2代目の平島公方となった[7]。だが、後ろ盾であった阿波三好氏も力を失っており、阿波での逼塞が続いた。
天正4年(1576年)3月、阿波三好氏の当主である三好長治が主君の細川真之に滅ぼされた[7]。これにより、その翌年から土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻することになった[7]。
天正5年(1577年)8月、義助は元親から阿波への出兵と所領の安堵を伝えられた[7]。長宗我部氏が義助を尊重する意思を示したのは、阿波はもとより四国では依然として、足利将軍家の家格による効力があったからである[7]。
天正10年(1582年)6月、織田信長が死去して四国への圧力がなくなると、8月から元親と阿波の十河存保(三好長治の弟)との間で中富川の戦いが勃発した[7]。そのさなか、9月2日に義助は元親から馬を送られており、元親との友好を深めている[7]。他方、元親は阿波に下国していた細川昭元とも関係を構築しており、阿波や讃岐への進出の大義名分として、旧来の権威を利用した[8]。
天正13年(1585年)7月、義助を尊重していた元親が豊臣秀吉の四国征伐で敗れ、土佐一国を領有するのみとなった[9]。そして、戦後の論功行賞により、阿波は蜂須賀家政に与えられた[9]。
蜂須賀氏の阿波入りに至って、義助は三千貫の所領を没収され、平島に100石を「茶料」として与えられるまでに落とされた[9][10][11]。これ以外に、後の徳島市富田町3丁目に当たる地を得て、蜂須賀氏との折衝などのための出屋敷として使用した(富田下屋敷)。平島公方の権威は長宗我部氏らには尊重されたが、豊臣政権の下で国持大名となった蜂須賀氏の下では、そうした権威は自身の統治において邪魔な存在でしかなかった[9]。
天正20年(1592年)7月25日、義助は平島で死去した。享年52。