天和2年(1682年)、父・忠義の死により家督を相続した。若年での相続であったために、江戸幕府より国目付として使番の保科正静らが派遣される。
元禄6年(1693年)には側用人に就任した。同じ年、改易された旧明石藩主で暴君として評判の悪かった本多政利の身を預かったところ、政利が家臣への暴力沙汰を起こしたため、監督不行き届きとして幕府より半年ほどの謹慎を言い渡されている。
享保16年(1731年)死去。
土芥寇讎記によれば、両刀使い(バイセクシャル)で、晩年は美少年を好んで何人も傍に侍らせたとある。
なお唯一の息子で嫡子となるはずだった酒井忠辰は夭折している。