酔経学舎
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酔経学舎は、飯詰字中島の江畑家の庭内を流れる出川に橋を架けた江畑邸向かい側に設けられた[1]。学舎設立の趣旨や学舎会則は『秋田県教育史』資料編に詳しい[1]。後藤宙外によれば、「酔経学舎」の名は、江畑家所蔵の石川鵬斎筆になる扁額「心酔六経」にちなむとのことである(『秋田考古会誌』への寄稿文)が[4][5]、これについてはのちに本荘町の結城朝文が「郷塾マタカツテ六経ニ酔ワズ」と詠じている[6]。
教授陣には、かつての久保田藩の藩校明徳館の教授も何人か招聘されていた[7]。テキストは四書五経にとどまらず、朱子学諸学者のオムニバスともいえる『近思録』や水戸藩編纂の『大日本史』、頼山陽『日本外史』、旭峰の兄狩野良知による『支那教学史略』、さらに鳩山和夫の『万国公法』、田尻稲次郎の『経済大意』など多岐にわたっており、授業は9時から15時までであった[6]。一科の書を読むごとに試験する個別進級方式で、高等小学校卒業生が予科に、予科卒業生が本科に進むというシステムであった[6]。1か月以上無届で欠席した者は除名に処せられた[6]。
『棣華』は明治33年(1900年)の第10集まで刊行された[1]。新之助のまたいとこにあたる江畑良太郎との共同出版のかたちをとり、第1集の寄稿者は153名にもおよび、なかば酔経学舎の機関誌的意味合いをもっていた[1]。第1集には、酔経学舎真景が半紙版折り畳みの口絵として挿入されており、序、規箴(漢文による箴言)、文林(漢文による論談)、史伝、詩文、和歌、俳句、作文、祝詞、舎告(あとがき)、広告という構成になっている[1]。2集以降も祝詞のない以外はほぼ同様の構成となっており、口絵に相当する箇所は書画や今様(漢詩を漢字半仮名交じりで表現したもの)、雑纂(詩文・俳句のつくり方)、ローマの歴史など、号によって工夫を凝らしていた[1]。第10集刊行後に酔経学舎もその活動を終えたものと推定される。なお、秋田県南部最初の旧制中学である横手中学校(現秋田県立横手高等学校)の創設は明治31年(1898年)のことであった。