長井源
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三重師範学校(現在の三重大学)を卒業した。三重県内の尋常小学校の教員を経て、法律を学ぶため1923年(大正12年)明治大学法学部法律学科を卒業した[2]。高等文官試験をパス(合格)した。衆議院議員に初当選する前のキャリアとして、弁護士、松阪市会議員、三重県会議員、第33代三重県会副議長(昭和8年11月~昭和10年10月在任)を務めた[2]。
1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に民政党の公認で初当選した。初当選時は42歳だった。戦前の大日本帝国時代の帝国議会で3回当選。戦前は民政党(立憲民政党)の筆頭総務となり、1942年(昭和17年)の翼賛選挙には非推薦候補として当選した。戦後初の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で日本進歩党から4回目の当選を果たして、第1次吉田内閣の組閣で文部大臣として入閣するところを、マッカーサーGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資格審査にかかり公職追放となった。1951年(昭和26年)に公職追放解除になると国政に復帰し、改進党の重鎮として活躍した。通算6回当選[3]。
1965年4月の春の叙勲で勲四等から勲二等に叙され、瑞宝章を受章する[4]。
1966年(昭和41年)9月19日、死去。72歳没。翌20日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位に叙され、銀杯一組を賜った[5]。
