長野左京亮 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不明死没 天正12年(1584年)別名 左京進 凡例長野 左京亮時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不明死没 天正12年(1584年)別名 左京進主君 北畠具教 → 織田信雄 → 豊臣秀吉 → 織田信包氏族 長野氏テンプレートを表示長野 左京亮(ながの さきょうのすけ)は戦国時代~安土桃山時代の戦国武将。北畠家家臣。その後、織田家家臣。 長野左京亮は北畠家中で寺社奉行を日置大膳亮とともに務めた[1]。 永禄12年(1568年)、織田信長が北畠氏討伐のため南伊勢に侵攻し、大河内城を包囲した(大河内城の戦い)。この時、左京亮は大河内城に籠城しており、丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通が夜襲してきた際、左京亮は日置大膳亮、安保大蔵少輔、家城之清らとともに防戦し、手柄を挙げた[1]。その後、織田氏と北畠氏の間で和睦が成立し、左京亮は北畠具教の養子となった織田信雄の家臣となった[1]。 天正4年(1576年)、織田信長・信雄親子が北畠一族の抹殺を計画した。この時、北畠一族の実行犯として信雄は北畠氏旧臣であった左京亮、奥山知忠、藤方朝成、滝川雄利を呼び出し、領地の朱印を与えて誓紙を書かせて具教殺害を指示した。11月25日、左京亮・滝川雄利・柘植保重の3名の軍勢が三瀬御所を包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突いた。具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ず、そのまま左京亮に討ち果たされた(三瀬の変)[1]。これらの功績で、左京亮は保重や雄利とともに小倭を与えられた。また、三瀬の変を受け、小倭で反乱を起こした地侍らを雄利と保重とともに鎮圧した[1]。 天正6年(1578年)、信雄が信長の許可を得ずに伊賀に攻め込んだ(第一次天正伊賀の乱)。しかし、信雄軍は伊賀衆に敗北を繰り返した。その際、信雄は伊賀への侵攻を信雄に進言した伊賀の国衆・下山甲斐守を虜にして兵を引こうとした。左京亮は甲斐守の居城下山城に赴き、甲斐守を誘い出して捕縛した[1]。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、信雄を裏切って豊臣秀吉に属した。戦後、織田信包の家臣となり、同じく信包の家臣となった岡村修理亮とともに小倭荘を与えられた[1]。左京亮は新たに八幡山に城を築城した。しかし、岡村修理亮とは不仲であり、修理亮の息子・家所清次郎に津城にて切り付けられ、亡くなった。清次郎も左京亮の家臣に討たれた。八幡山城は信包の家臣・守岡金助に与えられた[1]。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 8 神戸良政『勢州軍記』。 参考文献 神戸良政『勢州軍記』 Related Articles