織田氏

日本の氏族 From Wikipedia, the free encyclopedia

織田氏(おだし)は、武家華族だった日本氏族

概要 織田氏, 本姓 ...
織田氏
家紋
織田瓜おだうり
本姓 桓武平氏資盛流
藤原北家利仁流?
忌部宿禰?
家祖 平親真(伝承)
種別 武家
華族子爵
出身地 越前国織田庄
主な根拠地 尾張国清洲城
美濃国岐阜城
近江国安土城
東京府
著名な人物 織田信秀
織田信長
織田信勝(信行)
織田長益(有楽斎)
織田信忠
織田信雄
織田信孝
織田秀雄
支流、分家 津田氏武家
凡例 / Category:日本の氏族
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家紋・揚羽蝶
家紋
揚羽蝶あげはちょう

もとは斯波氏の家臣の家柄で、尾張において勢力を張り、戦国時代には織田信長が出た。嫡流は関ヶ原の戦いで西軍に付き、改易となったが、信長の弟・長益と二男・信雄の子孫の4家が外様大名として明治維新まで続き、維新後は4家とも華族の子爵家に列する[1]

家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は「」(嫡流伊勢守家)、「」(大和守家)、「」(弾正忠家)など。

概略

織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓藤原氏藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。忌部氏の流れを汲むとする説もある。

甲斐氏朝倉氏と同じく、三管領斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代尾張国守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家織田信長が勢力を大きく広げた。

中世の織田氏では、一族全体を統制する絶対的な権威を持つ惣領が長く成立せず、越前に残る者、京都で斯波氏に近侍する者、尾張守護代となった者など、複数の存在形態が併存した。尾張守護代家も、在京守護代を務めた伊勢守家と、尾張に在国して又守護代を務めた大和守家に分かれ、応仁の乱後には尾張を分割して支配した[2][3]

だが、天下統一を目前に本能寺の変で信長および嫡子の織田信忠が討たれると、織田氏の有力家臣の間で勢力争いとなった。最終的に羽柴秀吉が織田家中を纏めたが、織田家当主とされた織田秀信の成長後も政権は織田家に返されることはなかった。

しかし、織田氏の本国である岐阜城は返却され、美濃の領主とされた。関ヶ原の戦いで西軍についたことで徳川家康により織田秀信が改易され、5年後の彼の死を以って織田家嫡流は断絶したと言われている。

とはいえ、織田信長の次男である織田信雄を筆頭に弾正忠家の庶流は存続し続け、江戸時代には外様の小大名や高家旗本尾張藩明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏津田氏のように織田を称しない一族もいる。現在でも直系子孫が続いている。

明治維新後、大名の織田家 4家が華族の子爵に列した。

出自

織田氏は系図の上では平資盛の子と自称する平親真の子孫と称している。しかし、福井県越前町織田法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[4]。ただし、資盛の親戚である四条貞子のように100歳以上の長寿もいないわけではないので真実は不明である。

この他、越前国織田荘福井県丹生郡越前町)の織田剣神社神官の出自であるともされている[5]

また、福井県郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社に伝わる明徳4年(1393年)6月17日付「藤原信昌・兵庫助将広置文」にみえる藤原信昌兵庫助将広父子は、越前織田氏の祖先に関係する人物とされる。松原は両者を、鎮守府将軍藤原利仁、または利仁の岳父とされる敦賀郡の豪族・藤原有仁の系統に位置付け、織田氏の藤原姓や忌部氏との関係を説明している。

ただし、この置文自体には「織田」の名字は記されていない。信長以前の織田氏が藤原姓を用いたこと、劔神社を氏神としたこと、「信」「広」の諱字や兵庫助の官途が一族にみられること、年代的に矛盾しないことなどから、信昌・将広父子を織田氏に比定する見解が示されている[6]。また、将広を織田常松または織田常竹と同一人物とする見方もあったが、将広と常松は活動年代が異なり、両者を父子とする可能性が指摘される一方、直接の系譜史料は確認されていない[7]

田中義成の研究によると、信長は天文18年(1549年)11月付の熱田八ヶ村宛制札に「藤原信長」と署している。信長以前の織田氏は藤原を本姓としており、信長自身も初期には藤原姓を用いた。一方、元亀2年(1571年)に越前国白山別山権現へ奉納された鰐口には「信心大施主平信長」と刻まれており、信長の時代に平姓が用いられるようになったことが確認できる[8]

また、天文23年(1554年)6月11日に熱田神宮へ寄進された菅原道真画像には「藤原織田勘十郎」と記されている。他の学説としては、親真自身が忌部氏の出自とする説もある。

なお、「織田」の読み方について、『寛永諸家系図伝』仮名本の振り仮名を根拠として、当時(江戸時代前期)には「をた(おた)」と読まれており、織田信長も生前は「おたのぶなが」と清音で読まれていた可能性があるとする橋本政宣の見解がある[9]

建武の新政 - 安土桃山時代

斯波氏の重臣

元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。

初期の織田氏に関係する史料として、明徳4年(1393年)6月17日付の「藤原信昌・兵庫助将広置文」がある。ただし、この置文自体には「織田」の名字は記されていない。藤原信昌兵庫助将広父子を織田氏に比定する根拠には、信長以前の織田氏が藤原姓を用いたこと、劔神社を氏神としたこと、「信」「広」の諱字や兵庫助の官途が一族にみられること、尾張守護代就任直前の年代と矛盾しないことが挙げられている[6]

置文に付された添書によると、信昌は当時78歳で、嫡男将広は京都で斯波義将に仕えていた。信昌が作成した置文は京都の将広のもとへ送られて加判を受けた後、越前へ返送され、劔神社に奉納されたと考えられている[10]

将広を初代尾張守護代の織田常松と同一人物とする説もあったが、両者は活動した世代が異なり、常松の実名も教広とみる説が有力である。守護代家で「広」が通字として用いられたことから、将広と教広を父子とする可能性は指摘されているものの、両者を直接結び付ける系譜史料はない[7]

後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田常松(織田教広)とされる[11]。将広と常松は別人と考えられ、両者を父子とする可能性が指摘されているが、直接の系譜史料はない[7]

守護代就任に伴って多数の一族が尾張へ入ったとみられる一方、一族全体が越前を離れたわけではなく、越前に残る者、京都で斯波氏に近侍する者、尾張へ移る者が併存した[12]。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成(京屋敷への公式訪問)を毎年6月19日前後に受けることが通例となるほどの家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子出奔して抗議する程の事件となった。この頃になると、室町将軍は斯波氏を介さずに直接、織田氏に対して御内書を発給するようになっており、その書札礼も他の守護宛てと比較しても遜色ないものであった。[13]

現存史料で「織田」の名字を明確に確認できる早い例は、『吉田家日次記』応永8年(1401年)3月13日条にみえる織田与三である。与三は後に主計を称し、出家後は浄祐と呼ばれた。斯波義将の意向を寺社へ伝え、寺社側の要望を取り次ぐ申次として活動し、東寺文書では「勘解由小路内者」と記されている。「内者」は大名に近侍して庶政を担う内衆を指し、与三は斯波氏の在京近臣として活動していたと考えられている[14]

浄祐は応永20年(1413年)に東寺領遠江国原田荘細谷郷、翌21年には興福寺領越前国河口荘新郷の代官職を得た。これらの代官職の取得には越前・遠江守護代甲斐氏との関係が影響しており、浄祐は京都に居住しながら、現地に又代官を置いて経営した[15]

文安4年(1447年)、京都の邸宅を焼失した甲斐将久は半年以上にわたって浄祐の邸宅に寄宿した。浄祐の子や孫も伊勢氏被官の仲介を受けて中原康富から『論語』の講義を受けており、文安6年(1449年)には「織田主計跡与二郎」が確認される。浄祐の地位や代官職は与二郎へ継承されたとみられる[16]

このほか、織田筑後入道は斯波義淳の近臣として使者や交渉を担った。永享元年(1429年)と同3年に義淳の管領就任や慰留をめぐって活動した無官途の「織田」を筑後入道に比定する見方もあるが、史料上は確定できない[17]

嘉吉元年(1441年)、尾張守護代織田郷広の被官が万里小路家領六師荘を押領すると、郷広は斯波持種・甲斐将久・「織田一族」から絶交され、尾張から逃亡した。甲斐将久は、郷広が退去しても「織田一族」は存在すると述べている。守護代個人と一族全体は同一視されず、各支系が惣領から一定の自立性を持っていたことがうかがえる[18]

尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた[要出典]。ただし、織田氏では長く一族全体を統制する絶対的な権威を持つ惣領が成立せず、守護代家も庶流家を完全には統制できなかった[3]

なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。

応仁の乱と織田氏の分裂

織田氏の主君である斯波氏は7代当主斯波義淳の没後、8代・義郷・9代・義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。

この争いが将軍家畠山氏家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、山名氏と近い義廉と甲斐氏や織田氏(伊勢守家)などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流(織田大和守も含む)は東軍となり争った。その後有力家臣の一人である朝倉孝景が越前に下向し東軍に鞍替えし、甲斐敏光も東軍に帰順するなど斯波家中の状況も変化する。義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年遠江国は同じ東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠を敗死に追い込んでいる。越前国では朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同じ東軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。武衛騒動に始まる度々の失態により義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。

尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。

しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府の将軍・足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国斎藤妙椿(旧・西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。

翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡葉栗郡中島郡春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡知多郡海東郡海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。

文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。

文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。

守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている[19]。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏逸見弾正の名が見える[20]。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。

斯波義寛の伴衆と庶流織田氏

蔭凉軒日録』に記された斯波義寛の伴衆には、伊勢守家・大和守家の成員に加え、系譜上の位置が明確でない織田氏や、備後守良信らの庶流も含まれていた。伴衆は一般の随軍者とは区別された、主君に近侍する限られた構成員であった。織田備後守は、信長の曽祖父とされる織田良信に比定されている[21]

同時期の赤松氏・細川氏などでは、伴衆は年寄・奉行人や領国支配を担う重臣を中心としていた。これに対して義寛の伴衆には、幕府社会で広く知られた上層被官に限らず、多様な織田氏が含まれていた[22]

良信や藤左衛門尉良縁らは、義寛が義良と称した時期に「良」の偏諱を受けたとみられる。偏諱が与えられた時期は、義寛が尾張へ下向して在国する以前に当たり、応仁・文明の乱に伴う家督抗争や遠江・越前への出兵など、相次ぐ軍事動員が庶流家と義寛の接近を促したと考えられている[22]

九郎左衛門尉良康は、義寛が越前回復を祈願して祖先の塔所を建立しようとした際、その奉行に任じられた。偏諱の授与、伴衆への編入、特別な奉行職への任用を通じて、庶流家は守護代家を介さず義寛と直接主従関係を結び、斯波氏の直臣として編成されていったとみられる[23]

斯波氏の失墜

明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。

その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため、永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。

清須三奉行の再検討

後世に「清須三奉行」と呼ばれた因幡守家・藤左衛門尉家・弾正忠家は、守護代大和守家の有力庶流であった。ただし、「清須三奉行」は同時代に用いられた組織名称ではなく、『信長記』の記述が後世の史書に引用される中で、弾正忠家の出自を説明する呼称として定着したものである[24]

永正13年(1516年)12月1日、弾正忠信貞・藤左衛門尉良頼・因幡守広延は、妙興寺領の諸末寺や散在所領について、歴代の判形に従って知行を保障する連署奉書を発給した。原本に付された「清洲三奉行」の貼紙は、妙興寺で古文書が整理された際に加えられた可能性が高い。奉書には三人が守護代織田達勝の命令を奉じたとの文言がなく、同日には達勝自身の判物も別に発給されている[25]

三家が揃って発給した同種の文書はほかに確認されていない。このため、大和守家の中枢政務を恒常的に担った常設の奉行組織とみることは難しく、大和守家で当主の交代が相次ぐ中、台頭した三つの庶流家が妙興寺の要請に応じて、一時的に共同保証を行ったものと考えられている[25]

文明14年(1482年)の法嫡相論では、良信・良縁ら複数の織田氏が奉行として署判した。ただし、彼らに日常的な奉行人としての活動は確認できず、この相論のために招集された可能性もある。藤左衛門尉良縁は、織田敏定の死後に生じた混乱の中で、幕府御料所および伊勢氏関係領であった小田井を占有し、同家の領主基盤を形成した[26]

三家の台頭には、斯波氏との直接関係によって守護代家からの自立志向を強めたことに加え、それぞれが地域的な拠点を獲得して領主化したことが影響した。ただし、守護斯波氏・守護代織田氏による支配体制は形骸化しながらも存続し、信秀の時代にも完全に克服されたわけではなかった[27]

織田弾正忠家の台頭と織田信長の出現

弾正忠家の早い時期の人物として、文明14年(1482年)の法嫡相論に署判した織田良信が確認される。清須市の佛音寺に伝わる位牌には「前備州太守材巖徳勝居士霊位」「永正十一年戌甲十二月十一日」と刻まれており、その没年月日・法名・官途などから良信の位牌に比定されている。『信長公記』にみえる西巖、『妙興寺文書』の材岩、『蔭凉軒日録』の織田備後守も同一人物と考えられている[28][21]

このような中で急速に台頭した有力庶流の一つが、織田弾正忠家の織田良信信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。

妙興寺一衆の申状草案によると、弾正忠家は良信(材巖)・信定(月巖)・信秀の三代にわたって同寺領を押領した。良信が落合に拠点を置いて妙興寺領へ進出し、信定が津島を掌握して勝幡城へ拠点を移した過程は、弾正忠家が守護代家から自立した在地領主へ成長する過程と位置付けられている[27]

大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には、弾正忠家は主家を凌ぐほどの軍事力を蓄えつつあり、今川那古野氏今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。

一方、信秀の勢力拡大は守護・守護代体制から完全に独立して進められたものではなく、政治的な正当性を確保するためには守護斯波氏や守護代大和守家の権威を利用する必要があった[29][27]

その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼした。この一族間対立は長く強力な惣領が形成されなかった一族構造と、庶流家の分離・領主化によって生じたものであった。信長による尾張統一は、領国の統一とともに、分立していた織田一族を弾正忠家のもとへ一元化する過程でもあった[30][31]。更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。

信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国浅井長政越前国朝倉義景、さらに本願寺甲斐国武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが、信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、義昭は京都から追放された。室町幕府の滅亡により、織田政権が樹立される。

信長期には、津田名字を称する織田一族が急増した。津田は織田の異称と説明されることが多いが、信長以前の用例と信長期における増加の背景を考慮すると、両者を単純な同義の名字として扱うことには疑問が示されている[32]

信長のもとでは、一族の多くが津田・中川・木下・菅屋などの名字を称した。織田玄蕃允秀敏が生涯にわたって織田を称した一方、その子や孫は津田を称している。こうした事例から、織田名字の使用は各家に一律に認められたものではなく、個別に付与または認可されていたと考えられている[33]

信長の子弟にも一律に織田名字が与えられたわけではない。嫡男信忠が織田家の家督を継いだ一方、信雄・信孝・信包らは他家へ養子に入り、養家の名字を称した。近親以外の同族には織田名字を許した例もあり、血縁上の近さだけで使用の可否が定められていたわけではなかった。こうした名字の運用によって、弾正忠家と信忠を頂点とする嫡庶秩序が形成されたとみられる[33]

織田信張は元亀年間には津田太郎左衛門と記されていたが、後に織田名字を用い、従五位下に叙された。家督継承や地位の上昇に伴って織田名字を用いた例から、織田名字には一種の栄典としての性格が生じたと考えられている。ただし、名字と官職・位階との間に固定した対応関係は確認できない[34]

『信長公記』では、信長の子弟や近親が「御一門」「御一家」「御連枝」「御枝葉」などと記されている。これらの呼称はほぼ同様の意味で用いられ、構成員も一定していないため、織田家中に「一門衆」と呼ばれる固定的な家格や組織が成立していたことは確認できない。一方、信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄らの近親は、正月出仕・馬揃え・参賀などの儀礼では家中の上位に置かれた[35]

近親は信長の代理として儀礼や交渉に臨む名代の役割も担った。元亀元年(1570年)、信長と足利義昭が和議を結んだ際には、庶兄信広が信長の名代として義昭のもとへ赴いた。信広はそれ以前から京都に滞在し、幕臣や公家との交渉、義昭の警固、軍事行動などに関与していたため、信長の兄という血統上の立場と京都での経験が名代への起用につながったと考えられている[36]

信澄も東大寺正倉院の蘭奢待切り取りや安土宗論で信長の名代を務めた。信長本人が直接関与したとの評価を避ける必要がある場面で、近親の血統的権威と実務経験が利用されたとみられる[37]

一方、一門が恒常的な取次や家政機構を構成した形跡は乏しい。信忠を除く子息・近親の軍事統率権や地域支配権は、柴田勝家羽柴秀吉明智光秀ら宿老の広域支配に及ばなかった。その居城には信長と同笵の瓦や金箔瓦が許されるなど、血統に由来する象徴的権威が与えられたが、独立した一門領の拡大は抑制されていたと考えられている[38]

その後、信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年(1582年)には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠二条新御所自刃したため、信長・信忠が同時に死亡したことで、織田政権は後継体制の中核を失った。

豊臣政権下 - 江戸時代

清洲会議後の織田体制

一般的には本能寺の変の後、清洲会議での決定で信忠の嫡男・秀信(三法師)が織田宗家(織田弾正忠家の宗家)を継ぎ、三法師擁立の功績から羽柴秀吉が台頭したとされている(『川角太閤記』)が、一連の逸話を疑問視して信長・信忠に何かがあれば三法師が織田宗家を継ぐことは信長生前から決められており、信長・信忠の死によって当主になった三法師が避難・滞在している清洲城に織田氏の一族・重臣らが集まって今後のことを協議したのが清洲会議であるとする説もある。つまり、清洲会議は前者に従えば「三法師を後継者と決めた会議」、後者に従えば「(形式上)後継者である三法師が招集した会議」ということになる[39]

いずれの理解を採る場合も、信忠の嫡男三法師が家督を継承することを前提として、実際の体制運営を担う名代を信雄と信孝が争った。両者の間で決着がつかなかったため、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀池田恒興ら宿老が三法師を後見し、合議によって政務を主導する体制が成立した[40]

信長の死後も旧来の家臣団と支配の枠組みが維持された状態は、研究上「織田体制」と呼ばれている。清洲会議によって宿老の体制主導が承認された一方、信雄・信孝は信長生前と同様に一門の有力者にとどまり、織田一門から政務を主導する名代を選ぶことはできなかった[41][40]

本能寺の変後、織田信孝は京都の公家・門跡・寺社から求められ、信長以来の権利を保障する継目安堵や裁許を発給した。秀吉が山城国の支配を進め、指出の徴収や率分の停止を行う中、所領や収入の減少を懸念した公家・門跡衆は、信長の子である信孝に従来の安堵の継承を求めた。信孝の判物発給は京都支配を進める秀吉との対立を深め、「織田体制」の運営にも混乱をもたらしたと考えられている[42]

秀吉・丹羽長秀・池田恒興らは信雄を推戴して信孝を排除した。「織田体制」の枠組み自体は信雄が秀吉へ臣従するまで存続したとされる一方、織田一族が体制運営の主導的立場から外れた清洲会議、または信孝が失脚した段階を、織田一族による権力継承の終焉とみる見解も示されている[43]

しかし、その後元服して秀信と名乗った三法師は関ヶ原の戦いで敗れて改易されて配流の後に絶家したとされ、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞子孫であった。

信忠(信長嫡男)の末裔

織田宗家の当主となった三法師は当初は信長の三男信孝の庇護下に置かれて岐阜城にいた。ところが、清洲会議後に羽柴秀吉と柴田勝家が対立を深め、信孝が勝家と結ぶと、反主流派になった羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興と図って信長の次男信雄を名代として一時的に織田宗家の家督を継ぐことを認めることで三法師を擁する勝家・信孝に対抗した[44]

三法師は元服して秀信と称したが、賤ヶ岳の戦い後に信孝が滅亡し、小牧・長久手の戦い後に信雄が降伏した後も、実権を握った秀吉はそのまま信雄を織田宗家の当主として扱い、秀信は秀吉の庇護下のまま各地を転々とさせられ、信雄が失脚して嫡男の秀雄が後を継いだ際も秀信ではなく秀雄が織田宗家の当主とされていたと考えられる[45]

その後、秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。岐阜領は信長の四男である羽柴秀勝(於次)名跡を継いだ羽柴秀勝(小吉)の旧領であるために秀信を秀勝(於次)の後継者と考えることもでき、秀吉が一旦、織田宗家の家督を信雄父子に与えてしまったために改めて「信長ー(信忠)ー秀勝(於次)ー秀信」という織田宗家の家督の再構成を図られたとするとする説もある[46]。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位中納言まで昇進し「岐阜中納言」と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。

しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の絶家ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。また、秀信のである秀則も改易後は京都に隠退して男子を残さなかったとされている。

なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。

和歌山県橋本市善福寺跡地には1918年大正7年)4月に上記の織田(おりた)氏であり、秀信の後裔として織田信之助、織田亀吉、松山タケノらによって、織田秀信公碑が建立されている。この石碑には、当時の円徳寺(岐阜県岐阜市神田町)の住職により秀信の事跡を綴らている。

信雄(信長次男)の末裔

信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、伊賀国10万石を召し上げられ服属するにいたった。小田原征伐の後に国替え(従来の尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)98万石[47]から家康の旧領・三遠駿と甲信(上杉領の北信を除く)119万石[48]への転封)をめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなく許されて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。

長男・秀雄は父とは別に越前大野5万石を与えられていた。所領は、さほど大きくなかったものの官職は参議公卿・上級の公家)に叙され「大野宰相」と称され他の大大名と位の上では並んでいた。豊臣政権内では従弟の織田秀信とともに秀吉の旧・主家として優遇され席次も上位に列したが、関ヶ原で西軍に属し改易となった(なお、前述のように信雄・秀雄父子が秀吉から一旦は織田宗家の家督を認められていた可能性が高い)。

信雄自身も関ヶ原で西軍に与したため、いったん所領の1万8千石を没収された。大坂冬の陣の直前に大坂城から退去。豊臣家滅亡後には、大和国宇陀郡および上野国甘楽郡などで5万石余を与えられ、大名に復帰した。

信雄の長男・秀雄と次男・高雄は父に先立って病死したため、三男・信良が継ぎ、この系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩天童藩の2万石の大名となった。

また、四男・高長の系統が大和宇陀松山藩3万1千石(のち2万8千石)、後に丹波柏原藩2万石の大名となった。信良の子・信昌の家臣団は、信昌の後見人という立場の高長が自ら宇陀松山を領有することに反対し、「宇陀も織田信良家(小幡藩)の所領である」と主張したが、幕府は高長の相続を認めた。

宇陀松山藩主・織田高長の三男・長政は3,000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治時代から昭和時代にかけて活躍した芸術家織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男・信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

信良系・高長系の両織田家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら幕府から準国主(国持並)[注釈 1]の優遇を受けた。しかし、江戸時代中期に、それぞれ明和事件宇陀崩れにより、陣屋(無城)大名に降格された。高長系織田氏は、家格引き下げだけでなく、さらに2万石へ減封となった。

柏原藩織田家(高長系)[注釈 2]は以後も騒動や不祥事が続き、信旧信憑信守信古の四代にわたり藩主の地位をめぐるお家騒動(「秘命騒動」および「保野騒動」)が起きている。信貞の代で信長の男系は絶え、細川氏黒田氏などから養子が入る。また信民は、拝領した江戸屋敷に町人を住まわせて金品を受領していたのが発覚、下屋敷を没収される。

天童藩織田家(信良系)は、財政再建に成功した隣藩・上杉家の助言を得て、米沢藩から淡水魚の提供と工匠の派遣、豪商からの資金提供[注釈 3]などを受け、稚魚の養殖や将棋駒の製造、浮世絵の販売[注釈 4]、紅花の専売を始める[49]。手彫りの将棋駒や「左馬」の工芸品はのちに天童の特産品となる。

その他、天童藩・柏原藩の両織田家は庶子には津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主・織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主・織田信浮の十男・津田長郷の系統などをあげられる。

その他の信長の子の末裔

信長の三男・信孝は、秀吉との抗争に破れたのち天正11年(1583年)に自害。四男・羽柴秀勝(於次丸)は、天正13年(1585年)に病死。五男・信房(勝長)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条新御所で戦死した。信房の長男・勝良前田利長に仕え、600石を知行した。

信長の六男・信秀から十一男・長次までの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で、息子たちの多くは西軍に属して没落した。

六男・信秀は、父信長より美濃の揖斐に所領を与えられた。秀吉が権力を掌握すると、近江国栗太郡[注釈 5]に移された。関ヶ原以前に死去。長男の重治は理由不明ながら父の遺領を継げず、次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、家は絶家となった。

七男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。

八男・信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石[注釈 6]を与えられる。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱した。戦後に改易となり、長男・良甫の子である吉雄は京極高国の家臣になった。

九男・信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易。長男信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えた。

信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1,000石余が与えられ旗本(のちに高家)となった[注釈 7]。後に分知により700石余りに減った。

貞置の三男・貞則、四男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

貞置の津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟瑟津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期画家として知られる。

十男・信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死。十一男・長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死した。ほかに信忠の上に、庶長子信正がいたという説があるが、実在したかまた信長の実子か不明である[注釈 8]

信長の弟の末裔

織田信勝
織田信長の弟・信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫・昌澄藤堂高虎豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2,000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子・信高は三男・信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。
織田信包
織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩[注釈 9]主となり、三男の信則が家督争いのすえに相続したが、孫・信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男・信当は幕府から3,000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。
なお、信包の長男・信重は父とは別家として伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟・信則と遺領である丹波柏原3万6千石の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。
織田長益系(有楽流
織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男・長政と五男・尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。
また、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男庶長子)・長孝美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子・長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟・長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。
なお、長益自身が領有した(支藩を分与後の)味舌藩1万石は、次男(嫡男)・頼長の子である織田長好に継がせる予定であったが、届出を出さないうちに長益が死去してしまったため断絶した。
長好は、有楽流宗家の再興を画策したが、父・頼長が「猪熊事件」への関与や「大坂の陣」での牢人衆との指揮権をめぐる紛争のあげく大坂城退去など、印象が悪かった点もあり実現しなかった。
長益の子で残る三男・俊長だけは父と不和であり、強制的に出家させられたり、勝手に還俗して叱責されたりで長益から所領の分与が得られなかった。のちに肥前鹿島藩主の鍋島直朝に仕えたという[注釈 10]
柳本藩織田家(尚長系)は、宝永6年(1709年)、秀親朝廷からの使者の御馳走役と同僚への指南役を命じられるが[注釈 11]、同役への指導が厳しく[注釈 12]前田利昌の恨みを買い刺殺された。秀綿の代には、明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こす。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに文政13年(1830年)には原因不明の火事により柳本屋敷が全焼する。幕末には信陽が無城から城主格に昇進した。維新の動乱期には、信成は再三にわたって上洛延期を申請し、様子見に徹した。
芝村藩織田家(長政系)は、輔宜の代に幕府領13000石を預けられる。長教の代には預かり地9万3430石を任されるようになった。自領と合わせ10万石を超え織田家としては、岐阜13万石で関ヶ原東軍主力を迎え撃った織田秀信以来の広大な統治領域である。ところが、年貢増徴に対して預かり地における百姓一揆が頻繁に発生し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して織田家からの預かり地撤回を奉行所に要求するに至った(「芝村騒動」)。さらに寛政6年(1794年)に芝村藩の代官による不正が発覚し、全ての預かり地召し上げと藩主に差控の処罰を受けた。
藩内においても、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫(金換算で5万両。五公五民の1万石大名では、年貢の10年分に相当)という莫大なものになったと言われている。幕末に長易は尊王攘夷派の天忠組追捕にあたったが、その後は中立的立場を取るようになり、戊辰戦争では官軍に参加した。
有楽流の織田氏は、信雄系のような特別な待遇(官位や江戸城での席次)は受けられなかったものの、信長以来の勤王の家柄ということや畿内の大名ということもあって、勅使の接待役や崇神天皇陵の補修工事など、勤王関係の役目を命じられている。柳本藩は幕末には城主格に昇格した。尚長系、長政系の両家とも、領内での一揆・強訴・暴動がかなり頻繁に起きている。なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。

明治以降

幕末維新期の大名織田家当主のうち柏原藩織田信親柳本藩織田信及芝村藩織田長易の3名は戊辰戦争で官軍に属したので特に何の問題もなく、明治2年1869年)の版籍奉還でそれぞれの藩の藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[50]天童藩織田信敏のみ戊辰戦争で賊軍に与したことで隠居を命じられて、代わって弟寿重丸に2000石減封の1万8000石の相続が許された。その後は他の3家と同様に藩知事に任じられると同時に華族に列し廃藩置県まで藩知事を務めた[51]

版籍奉還の際に定められた家禄は天童織田家が765石、柏原織田家が919石、芝村織田家が521石、柳本織田家が660石である[52][注釈 13]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、天童織田家が1万5896円72銭3厘(華族受給者中274位)[54]、柏原織田家が2万6191円20銭5厘(華族受給者中183位)[55]、芝村織田家が1万8125円(華族受給者中244位)[56] 柳本織田家が2万2940円15銭3厘(華族受給者中206位)[57]

高家旗本だった3家の織田家はいずれも早期に朝廷に帰順したため本領を安堵されて幕臣から朝臣に転じ、中大夫席を与えられた。明治2年(1869年)に中大夫以下の称が廃されると士族に編入された[58]

1884年明治17年)の華族令制定で華族が五爵制になると旧・大名の織田4家は爵位基準を定める『叙爵内規』に基づき旧・小藩知事[注釈 14]として子爵家に列した[59]

『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案(『爵位発行順序』所収)では元・高家が男爵に含まれており、旧・高家の織田家3家も男爵候補に挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では高家は対象外となったため士族のままだった[58]

読売新聞1892年(明治25年)11月24日付けの朝刊で織田信長三男信孝末裔を名乗る大阪府平民織田信義が叙爵請願書を大阪府知事山田信道に提出していることが確認できる。信長の息子で信孝の家系だけ旧幕時代に大名にも旗本にもなれなかったことを指摘し、信孝系救済のための叙爵を求めたが、不許可に終わっている[60]

1917年大正6年)には織田信長に正一位追贈された。これは当時の政府の議会対策で貴族院議員である旧・大名家当主たちの祖先の戦国武将に位階が奮発された結果、彼らが仕えた信長や秀吉にも最高位を与える必要が出たためといわれる。2024年令和6年)現在のところ正一位に叙された人物は信長が最後となっている[61]

昭和前期に天童織田子爵家の邸宅は東京市牛込区市谷薬王寺町[62]、柏原織田子爵家の邸宅は東京市目黒区大岡山[63]、柳本織田子爵家の邸宅は東京市淀橋区百人町[64]、芝村織田子爵家の邸宅は東京市麻布区霞町[65]にあった。

天童織田家の織田信恒子爵は日刊アサヒグラフ編集部に勤務していた1922年(大正11年)に椛島勝一絵『正チャンの冒険』の案と文を担当して漫画のフキ出しを初めて採用した。この漫画は子供たちの人気を得て「正ちゃん帽」を流行させた。1928年昭和3年)からは貴族院の子爵議員を務め、農林政務次官、静岡電鉄社長、NHK理事などを歴任。戦後に爵位を失った後には京浜急行取締役、京浜自動車工業社長、川崎さいか屋取締役、財団法人安達峰一郎記念館理事長などを務め実業家として活躍した[66]

柏原織田家の織田信親子爵は、宮内省に勤務した[67]。同家の現在の当主コピーライター織田孝一である。歴史雑誌・ムック[注釈 15]に度々寄稿している。

芝村織田家は代々有楽流の家元を務めており、現在の当主織田宗裕も有楽流の家元である[69]

1990年代にテレビタレントとして活躍した僧侶の織田無道は織田信長の子孫であると自称していた[70]

フィギュアスケート選手だった織田信成も信長の末裔と自称している[注釈 16]

系譜

以下の系図には後世に編纂された系図による復元や異説を含み、とくに初期織田氏の世代関係には確定できない部分が多い。藤原将広と織田常松についても、同一人物とする旧説と、別人とした上で父子関係を推定する説がある[7][8]

凡例
実線は実子、点線は養子、太字当主、□は名不詳。
 著名な事蹟がない人物、傍系の人物については掲載されていないこともある。

信長公記による系譜

信長公記以外に基づく系譜

系図には諸説あるため併記する

尾張守護代家

『清洲町史』の信長以前の織田氏系図(推定)。藤原将広と織田常松を同一人物とし、織田常竹をその兄弟としている。

藤原道意
 
 
 
 
 
 
 
 
信昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
織田常松
藤原将広
 
織田常竹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教長
 
郷広久長良信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏広広近
 
敏定信定
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛広
 
広遠
 
津田武永
 
寛定
 
寛村
 
信秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広高
(伊勢守家)
達定
(大和守家)
信広
 
信長
(弾正忠家)
 
信勝

岩倉織田氏(伊勢守家)

織田郷広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏広
 
広近
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛広
 
寛近
 
 
 
 
 
 
 
 
達定?
[注釈 17]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広高
 
 
 
 
?
[注釈 18]
 
 
 
 
信安
 
 
 
 
信賢

清洲織田氏(大和守家)

織田常竹1
 
 
 
 
久長2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敏定3常寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛定4
 
 
 
 
信定?
 
藤左ヱ門家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛村5
 
弾正忠家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
達定6
 
 
 
 
達勝7
[注釈 19]
 
 
 
 
信友8
[注釈 20]

藤左衛門家(小田井織田氏)

因幡守家

弾正忠家(勝幡織田氏)

勝幡系織田氏

織田信雄系統

織田長政系統(信雄系統の分流)
織田長政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信明
 
信清
 
長喬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信栄
 
信栄信安
 
信方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信之
 
信憑
 
信邦
 
信浮
 
信序
 
 
 
 
 
 
信味信虎
 
 
 
 
信存
 
 
 
 
信愛
 
 
 
 
信徳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一磨

織田信高系統(旗本高家)

織田信勝系統

織田信包系統

織田信包
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信当
 
信則
 
信重
 
寿圭
摠見寺住職
 
 
 
 
 
信相
 
信勝
 
 
 
信政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信義
 
信寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信昆
 
信直
 
信寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信彭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信与
 
信周
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信裕

織田長益系統

織田信貞系統

楽田城の織田氏

織田信次系統

織田勝長系統

織田勝長の子の津田勝良は、前田利長に仕え子孫は代々、加賀藩家臣を務めた。

織田信長勝長津田勝良ー長政ー喬長ー信要ー兵蔵ー信節ー伝八郎ー主税ー信勝ー則長

高家織田家

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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