陶寺遺跡
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襄汾県の県城東北にある崇山西麓の陶寺村に位置し、面積は300万平方mに達する。遺跡の年代は、放射性炭素年代測定によって、おおよそ紀元前24世紀から紀元前18世紀にかけて600年以上にわたって継続していたことが確かめられた[1]。遺跡前期の小城が、南北長さ約1000m、東西幅が560m。遺跡中期の大城が、南北長さ約1500m、東西幅が1800m[2]。遺跡後期には城跡が暴力的な破壊を受け、死者の墓を暴く行為までおこなわれた可能性がある[3]。
居住区と墓を含む遺跡に対する発掘は、1978年に開始された。住居跡は基壇をともなわず地上に直接建てられたもの、半竪穴式のもの、窰洞式のものの3種に分けられる。住居の平面は、大部分が隅の丸まった正方形であったが、なかには円形のものもみられた。屋内の地面は、多くのばあい火で焼かれていたが、石灰仕上げの例もあった。住居の大きさは、一般的に縦横とも2 - 3mで、内部にかまどや煙道をともなうかまど台が設けられていた[1]。大型家屋は未発見であるが、版築工法で突き固められた土塊や、幾何学文様をほどこした白石灰の壁面などが発見されており、大型建築の基壇の存在を示唆している[4]。住居跡の付近には、深さ14mに達する円形の井戸があり、底に近い部分は木枠で保護されていた。また石灰窯の跡があり、石灰を焼いて建築材料としていたことがわかる[5]。集落内でも貴族層などの社会的上位者の居住区画と一般民の居住区画が区別されていたことが判明している[6]。また東南小城に「観象台」と呼ばれる大型建築跡があり、半円形状の三層から成っている。下層・中層・上層の基壇の半径はそれぞれ約25m・約22m・約12m。下層には祭祀に利用されたととみられる基壇が設けられていた[7]。
遺跡範囲内で、いくつかの地下式貯蔵穴が発見された。形状は口が円形で内部が袋状、あるいは口が隅の丸まった正方形で内部がやはり袋状、また口が隅の丸まった正方形で内部が筒状の穴などであった。内部の側壁や底面は平坦でツルツルしていた。底面に草木灰あるいは石灰が塗られている穴もいくつかあった。穴の中には石器・骨器・土器・炭化した穀物の粒が残っていた。別に、これらとは種類の異なる円形、あるいは楕円形の大きな穴があり、その底面は平らな場合と窪みがつけられている場合があった。通常、側壁の片側に出入りのための坂道あるいは通路が設けられていた。おそらく貯蔵用、あるいは家畜を入れておくための地下式の檻であると考えられる[5]。
陶寺遺跡からは2種類の特色ある遺物が出土している。第一は彩色土器で、壺・甕・盆・盤・高坏などの土器の器壁には、いずれも黒または赤の地に赤や白や黄の彩色画がほどこされていた。文様は龍文・変形動物文・円点文・帯状文などがあった。とりわけ目立つのは、蟠龍文をほどこした土器の盤である[5]。特色ある遺物の第二は彩色木器で、案(つくえ)・几(供物を乗せる台)・俎(まないた)・匣(小箱)・盤・柄杓・高坏・倉形器・鼓などがあった[8]。木器の彩色は、赤の地に黄・白・藍・黒などの色で描いた、いわゆる五彩図案であった[9]。
そのうち木の幹をくり抜いて作った太鼓は、円筒の胴の部分に彩色画がほどこされ、ワニの皮が張ってあった。最大のものは高さ1.04m、直径は上部で43cm、下部で57cmあり、『詩経』大雅・霊台に見える「鼉鼓」であると考えられている。太鼓が出土した墓からは、特磬が出土している。長さ80cm - 90cmの特磬は、打ち割った石灰岩を加工して、人が腰をかがめているような形に作られている。太鼓と特磬は、ともに同種の楽器の中では最古の発掘例である[9]。
土器は夾砂灰陶[注釈 1]と泥質灰陶[注釈 2]とが多くみられるが、そのほか夾砂ならびに泥質の褐色土器、さらに泥質の黒色土器も出土している[9]。器面を飾る文様は、縄文[注釈 3]・籃文[注釈 4]が主であり、そのほかに方格文・付加堆文[注釈 5]・弦文[注釈 6]・すかし彫り・乳釘文[注釈 7]などがあった[10]。成形の方法としては、手捏ね法・型作り法・轆轤法の3種が確認されている[11]。
煮炊き用の土器は、釜竈[注釈 8]・斝・鬲が主であり、初期には釜竈が多用され、中期になって鬲が出現し、両者が併用された。さらに後期になると、鬲だけが用いられ、釜竈は消失する。そのほか鼎・甑・缸・罐・壺・盆・盤などの器種があった。なかでも後期に出現する光沢のある黒色の簋は独特の個性を持っている。土器の中には器壁の厚さが3mm以下と極薄のものもある[11]。また朱書文字土器とされる壺が発見されたことがあり、中国社会科学院考古研究所の何駑はこの朱文字が「文堯」と読めるとして、陶寺遺跡を伝説の帝王堯の所在地とみなす説を唱えたが、これは定説となっていない[12]。
住居跡の東南に位置する墓地は、面積3万平方m以上に達する。これまでに1000基あまりの墓が発見されているが、いずれも長方形の竪穴土坑墓であった。被葬者は大部分が仰臥伸展の姿勢の単人葬であったが、例外的に屈肢葬が3例、俯身葬が1例確認されている。死者の頭は、ほとんどが東南方向、すなわち崇山山頂の方向を向いていた[13]。
墓は大中小の3種に分類することができる[13]。数量的に最も多いのは小型墓であり、中型墓がこれに次ぎ、大型墓がもっとも少なかった[14]。あわせて9基を数える大型墓の土坑は、おおむね縦3m、横2mほどの大きさであった。木棺は彩色画で飾られ、底には朱砂が敷きつめられていた。被葬者はいずれも男性で、副葬品は最も多い墓で200点以上に達した。先に述べた彩色土器や蟠龍文をほどこした土器の盤や彩色木器などは、これら大型墓から出土している。さらに玉石器には、玉鉞・玉瑗・石斧・石錛・石鏃・石殳・「レ」字形の石包丁などがあった。そのほか1頭の犠牲のブタの骨が完全に残っていた[15]。墓に副葬されていた銅鈴は、内型と外型とを組み合わせて鋳造したもので、銅の含有量は98%。すでに高度な銅の鋳造技術を持っていたことを示している。また長江下流域の良渚文化に起源する玉琮や玉璧が出土し、遠方の地域と活発に交流していたことも明らかになった[16]。首長墓の俎の上に石包丁が載せられており、木製の豆(高坏)も副葬されていて、『礼記』に記された祭礼具がすでに揃っていたとの指摘もある[17]。
中型墓は被葬者の性別により、さらに2種類に区分できる。被葬者が男性の場合には、木棺の底に朱砂が敷きつめられ、副葬品は土器のセットのほか、少量の彩色木器や玉器、数点あるいは数十点のブタの下顎骨などであった。被葬者が女性の場合には、大型墓の両側の左右対称の位置で発見され、木棺に彩色画がほどこされていた。なかには死体に麻布の覆いがかけられていたり、朱砂が敷かれていることもあった[15]。副葬品としては、彩色土器の瓶、玉象眼の髪飾り、腕輪などのほか、ブタの下顎骨が1点ないし半分出土する場合があった[18]。
小型墓では一般に棺などの木製葬具は見られなかったが、なかにはすだれ状のもので死体を包んでいる例が見られた。副葬品も通常は皆無であったが、骨製の簪が入れられていることもあった。このような墓に見られる差異は、氏族内部の貧富および階級分化の反映とみられる[19]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 黄、朱 2003, p. 83.
- ↑ 宮本 2005, p. 128.
- ↑ 宮本 2005, pp. 259–260.
- ↑ 黄、朱 2003, pp. 83–84.
- 1 2 3 黄、朱 2003, p. 84.
- ↑ 宮本 2005, p. 373.
- ↑ 中国出土資料学会 2014, pp. 270–271.
- ↑ 黄、朱 2003, pp. 84–85.
- 1 2 3 黄、朱 2003, p. 85.
- ↑ 黄、朱 2003, pp. 85–86.
- 1 2 黄、朱 2003, p. 86.
- ↑ 宮本 2005, pp. 262–263.
- 1 2 黄、朱 2003, p. 87.
- ↑ 黄、朱 2003, pp. 87–88.
- 1 2 黄、朱 2003, p. 88.
- ↑ 岡村 2003, p. 110.
- ↑ 宮本 2005, pp. 281–282.
- ↑ 黄、朱 2003, pp. 88–89.
- ↑ 黄、朱 2003, p. 89.
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。
- 宮本一夫『中国の歴史01 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝』講談社、2005年。ISBN 4-06-274051-6。
- 中国出土資料学会 編『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』東方書店、2014年。ISBN 978-4-497-21411-9。
- 岡村秀典『夏王朝 王権誕生の考古学』講談社、2003年。ISBN 4-06-212165-4。