陸羽

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出生 開元21年(733年
復州竟陵郡
死去 貞元元年(785年)あるいは
貞元20年(804年
拼音 Lù Yǔ
鴻漸
季疵
陸羽
『陸東岡像』(歴代名臣像解)
『陸東岡像』(歴代名臣像解
出生 開元21年(733年
復州竟陵郡
死去 貞元元年(785年)あるいは
貞元20年(804年
拼音 Lù Yǔ
鴻漸
季疵
別名 陸疾
桑苧翁(
東崗子(号)
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陸 羽(りく う、728年頃 - 785年/804年[1][注釈 1])は、中国唐代文人。名は疾とも作る。は鴻漸・季疵。桑苧翁・東崗子などと号した[1]復州竟陵郡[4](現在の湖北省荊門市鍾祥市[1])の人。『茶経』の著者として知られる。

近代日本思想家岡倉天心はその著書『茶の本』の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評した[5]

出自は不明で捨て子とも言われる[3]。「」という姓については彼を拾った竟陵智積禅師の俗姓を貰ったもの、あるいは易卦にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[3]

西安大雁塔にある陸羽の像

幼年の頃、陸羽を拾った智積が俗書を学ばせようとしたが、陸羽は「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。これに怒った智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課したが、陸羽はそれらに勤しむ他方で、竹を用いて牛の背中に字を書いていたという。

のち張衡の『南都賦』を手に入れたが読めなかったため、正座して子どもたちのように口の中でぶつぶつ唱え、あたかも暗誦しているかのように振る舞った。智積はこれを咎めて拘束し、草刈りを命じた。文字を覚えるときも、ぼんやりして忘れたようになり、日を過ごしても進歩がなかったので、鞭で苦しめられた。陸羽は「歳月は過ぎ去っていくのに、どうして書を知らないままでいられようか」と嗚咽して自制できず、ついに逃亡し、役者に身を隠して、数千言に及ぶ滑稽な文章を作った。

天宝年間に、竟陵太守李斉物の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。容貌は冴えず、吃音があったが、雄弁であったという。

756年至徳元載)、安禄山の乱を避けようと、北方の知識人たちは江南へ逃れた。陸羽も760年上元元年)の頃、湖州苕渓に避難。庵をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皎然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。

大暦年間に、湖州刺史として赴任してきた顔真卿のもとで、『韻海鏡源』の編纂に加わった。御史大夫李季卿中国語版に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。

他の著作に『君臣契』『源解』『陸文学自伝』などがあったと伝わるが、いずれも散佚している。

伝記資料

  • 新唐書』卷一百九十六 列傳第一百二十一 隱逸[6]「陸羽傳」

日本語訳

脚注

参考文献

外部リンク

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