陸羽
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出自は不明で捨て子とも言われる[3]。「陸」という姓については彼を拾った竟陵の智積禅師の俗姓を貰ったもの、あるいは易卦にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[3]。

幼年の頃、陸羽を拾った智積が俗書を学ばせようとしたが、陸羽は「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。これに怒った智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課したが、陸羽はそれらに勤しむ他方で、竹を用いて牛の背中に字を書いていたという。
のち張衡の『南都賦』を手に入れたが読めなかったため、正座して子どもたちのように口の中でぶつぶつ唱え、あたかも暗誦しているかのように振る舞った。智積はこれを咎めて拘束し、草刈りを命じた。文字を覚えるときも、ぼんやりして忘れたようになり、日を過ごしても進歩がなかったので、鞭で苦しめられた。陸羽は「歳月は過ぎ去っていくのに、どうして書を知らないままでいられようか」と嗚咽して自制できず、ついに逃亡し、役者に身を隠して、数千言に及ぶ滑稽な文章を作った。
天宝年間に、竟陵太守の李斉物の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。容貌は冴えず、吃音があったが、雄弁であったという。
756年(至徳元載)、安禄山の乱を避けようと、北方の知識人たちは江南へ逃れた。陸羽も760年(上元元年)の頃、湖州の苕渓に避難。庵をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皎然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年(建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。
大暦年間に、湖州刺史として赴任してきた顔真卿のもとで、『韻海鏡源』の編纂に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。
他の著作に『君臣契』『源解』『陸文学自伝』などがあったと伝わるが、いずれも散佚している。