隈部氏
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木野氏断絶後に木野氏家臣軍団が臣従
弘治2年(1556年)に、木野親政が死去した事に由り木野氏が断絶した。
木野氏の家臣だった者達が、隈部親永の家臣に成った。
菊池氏の庶流赤星氏との抗争
菊池氏の庶流赤星氏を破って更に勢力を伸ばす
滅亡
天正12年(1584年)に、薩摩から北上する島津氏に攻められると、1年余籠城した。良く此れを防いで和睦し、所領を安堵された。
天正14年(1586年)に、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、速やかに降伏して、山鹿郡一帯の所領(約1900町)を安堵された。
天正15年(1587年)7月に、佐々成政が行成った検地に対して、隈部親永が、息子の隈部親泰と共に抵抗した事に由り、肥後国人一揆が勃発した。
佐々成政の率いる討伐軍に対して、籠城戦で応じた隈部父子が善戦した状態に由り、隈部氏に呼応する国人達が、佐々氏の不在に成っている隈本城に殺到した。
佐々成政は、山鹿郡・菊池郡の地域一帯から撤退して隈本城の落城を回避したが、肥後国全土に一揆が拡大した。
豊臣秀吉の命を受けた西国大名の援軍が、続々と肥後国に進軍を果たすと、肥後国人一揆が衆寡敵せずに降伏する。
隈部氏一族は、ことごとく捕らえられて処刑された事に由り、隈部氏嫡流が断絶した。
嫡流滅亡後
当主
信濃小諸藩士・隈部氏
小諸藩牧野氏の家臣団を参照のこと。