合志親為 From Wikipedia, the free encyclopedia 合志 親為(こうし ちかため)は、戦国時代の武将。 時代 戦国時代生誕 不明死没 天正13年(1585年)10月[1][2]別名 初名:赤星親賢婿入:合志親賢剃髪号:宣頓[3]概要 凡例合志親為, 時代 ... 凡例合志親為時代 戦国時代生誕 不明死没 天正13年(1585年)10月[1][2]別名 初名:赤星親賢婿入:合志親賢剃髪号:宣頓[3]戒名 金性寺殿日頭宣頓山主[4]墓所 熊本県菊池市宣頓寺[4]官位 伊勢守、蔵人大輔[4]主君 菊池義武大友義鎮龍造寺隆信島津義久氏族 赤星氏→合志氏父母 父:赤星重隆養父:合志高久[5]兄弟 赤星道雲、合志親為妻 合志高久の娘[6]子 合志高重(合志隆重)[7][8]テンプレートを表示閉じる 肥後菊池氏の庶流の赤星氏の者で、肥後国合志郡竹迫城の城主と、合志氏当主に成った人物。 出自 菊池武時の八男で、菊池武重の八弟で、菊池武敏や菊池武光や菊池武士の八兄で、赤星氏の当主に成った菊池武豊(赤星武生)の子孫。 肥後国菊池郡の赤星重隆の次男として生まれた。 肥後国合志郡竹迫城と合志氏当主 合志高久に養子として迎えられて、大永3年(1523年)2月4日に、養父の合志高久が死去した事に由り、合志氏の家督を継いで[4]、肥後国合志郡竹迫城の城主[4]と成る。 菊池氏家臣時代 天文19年(1550年)に、菊池義武の家臣として、大友義鎮の軍勢と戦い、飽田郡隈本城を奪還する為に助けている[4]。 天文20年(1551年)に、菊池義武を助けた事に由り、大友義鎮の軍勢に合志郡竹迫城を攻められるが、撃退に成功する。 天文23年(1554年)11月24日に、菊池義武が自害した前後の頃に、大友義鎮に臣従している[9][10]。 同族の木野氏遺領 弘治2年(1556年)に、同族の木野親政が死去した時に、跡を継ぐ者が居無かった事に由り、木野氏が断絶した。 同族の木野氏遺領に付いては、長兄の赤星道雲が相続した後で、木野氏遺領の一部を重臣の隈部親永が欲しがった事に由り、実家の赤星氏が、重臣の隈部氏との敵対を始めている。 合勢川の戦い 永禄2年(1559年)5月に、長兄の赤星道雲が相続した木野氏遺領に付いて、重臣の隈部親永に侵軍されたので、合勢川の戦いで迎え撃ったが、負けた事に由り、甥の赤星親隆と甥の嫡男の赤星統家が、合志郡竹迫城に身を寄せている。 相良氏と名和氏への仲裁 永禄4年(1561年)に、相良氏と名和氏の争議の仲介をする[4]。 耳川の戦い 天正6年(1578年)に、耳川の戦いで、大友氏が大敗して衰退するが、嫡男の合志高重と共に、以後も大友義鎮に従属している。 山鹿郡長坂城の戦い 天正7年(1579年)6月に、佐賀の龍造寺隆信の家臣の江上家種が、同盟者の隈部親永の援軍として山鹿郡に侵軍して来た。 7月末に、甥の赤星親隆の援軍として、山鹿郡長坂城の城主の星子中務丞の救援に、妻の弟の合志道玄と、嫡男の合志隆重を向かわせた。 8月1日に、隈部・龍造寺連合軍に負けた事に由り、合志道玄が討死して、合志隆重が合志郡竹迫城に敗走した。 8月2日に、山鹿郡長坂城の救援に失敗した事に由り、隈部・龍造寺連合軍に攻略されて、星子中務丞が自害している[11][12]。 合志郡久保田の戦い 天正8年(1580年)に、久保田の戦いでは、島津義久・城親賢らの軍勢に敗れている。 菊池郡隈府城の戦い 天正9年(1581年)4月13日に、赤星氏の菊池郡隈府城が、隈部氏と龍造寺氏の連合軍に攻撃された。 4月21日に、甥の赤星親隆と甥の嫡男の赤星統家が、菊池郡隈府城を隈部親永に明け渡した後で、合志郡竹迫城に身を寄せている[13][14][15]。 此の頃に、佐賀の龍造寺氏に臣従している。 沖田畷の戦い 天正12年(1584年)に、佐賀の龍造寺隆信が、沖田畷の戦いで討死した前後の頃に、薩摩の島津氏に臣従している。 此の頃に、嫡男の合志高重に、合志氏の家督を譲り隠居する。 島津氏家臣時代 天正13年(1585年)頃に、合志高重が島津氏政策に失敗すると、薩摩の島津氏へ出向いた[4]。 天正13年(1585年)10月に、合志郡竹迫城で死去した。 合志氏滅亡 合志親為が死去した後で、薩摩の島津氏から離叛した嫡男の合志高重が敵対した。 天正14年(1586年)5月8日に、薩摩の島津氏家臣の、新納忠元や川上忠堅[16]に、合志郡竹迫城を攻略された[17]。 合志高重が、薩摩国伊佐郡羽月郷に連行されて処刑された事に由り、合志氏は滅亡した。 脚注 [脚注の使い方] [1]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志伊勢守親為に付いては、天正13年(1585年)10月に死去した事が記載されている。 [2]『熊本県合志市ホームページ』の『合志親為(こうしちかため)肖像図(市指定文化財)』では、合志伊勢守親為に付いては、天正13年(1585年)10月に死去した事が記載されている。 [3]阿部 & 西村 1987, p. [要ページ番号]. [4]阿部 & 西村 1987. [5]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志兵庫頭高久に付いては、大永3年(1523年)2月4日に死去した事が記載されている。 [6]合志兵庫頭高久の子の合志兵庫頭道玄に付いて、『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志孫四郎隆重の叔父(母の弟)だと記載されている。 [7]『熊本県菊池市史・上巻』では、合志隆重に付いては、赤星道半親隆の従甥だと記載されている。 [8]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志孫四郎高重に付いては、始名が合志隆重で、合志親為の嫡男だと記載されている。 [9]『熊本県菊池市史・上巻』では、菊池義武に付いては、天文23年(1554年)11月24日に、自害した事が記載されている。 [10]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志親為に付いては、大友義鎮に臣従した事が記載されているが、合志親為が臣従した時期に付いては、記載が無い。 [11]『熊本県菊池市史・上巻』では、天正7年(1579年)8月2日に、隈部氏の攻撃に由り、山鹿郡長坂城で、星子中務丞が自害した時の実名(じつみょう)に付いては、鎮正(しげまさ)だと記載されている。 [12]『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、天正7年(1579年)8月2日に、隈部氏の攻撃に由り、山鹿郡長坂城で、星子中務丞が自害した時の実名(じつみょう)に付いては、廉正(かどまさ)だと記載されている。 [13]『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、天正9年(1581年)4月13日に、赤星親隆の菊池郡隈府城が、隈部氏に攻撃されて、4月21日に赤星親隆が出奔した歴史が記載されている。 [14]『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道半親隆に付いては、従甥の合志隆重の合志郡竹迫城を頼った事が記載されている。 [15]『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、赤星道半親隆に付いては、叔父(父の弟)の合志親賢の合志郡竹迫城を頼った事が記載されている。 [16]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、川上左京亮忠堅に付いては、天正14年(1586年)7月6日に、死去した事が記載されている。 [17]『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志郡竹迫城に付いては、天正14年(1586年)5月8日に、新納武蔵守忠元と川上左京亮忠堅に、攻略された事が記載されている。 注釈 参考文献 佐賀県佐賀市史・第一巻(佐賀市史編纂委員会、1977年7月) 熊本県菊池市史・上巻(菊池市史編纂委員会、1982年3月) 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月。ISBN 4404014120。 熊本県菊池郡西合志町史・通史編(西合志町史編纂協議会、1995年3月) 熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編(菊鹿町史編集委員会、1996年3月) 外部リンク 佐賀県佐賀市史:第一巻(地理的環境・原始・古代・中世編) 佐賀県佐賀市史:第一巻【中世Ⅱ】四 戦国時代と佐賀地方 熊本県合志市ホームページ - 合志親為(こうしちかため)肖像図(市指定文化財) 関連項目 赤星氏 赤星親隆 Related Articles~TimelinesTop QsFact Checks