行願寺
京都市中京区にある寺院
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歴史
『百錬抄』、『日本紀略』等によれば、当寺は寛弘元年(1004年)に行円が一条小川の一条北辺堂の跡地に一条北辺堂を復興し、新たに行願寺と名付けたものであるという[1]。また、一条天皇の勅願により行円によって建立されたともいう。寺名である行願寺とは「行円上人願いの寺」という意味である[2]。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、当寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。
行円は本尊となる仏像を作るための木材を求めていたが、ある夜の夢に高僧があらわれ、加茂の社の傍らに霊木があることを告げられた。そこで、加茂の社に行ってみると社の傍らに槻の木があり、それを譲り受け、自ら一刀三礼して八尺の千手観音像を彫りあげたとされている[2]。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿の腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその雌鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、それによって当寺の名も革堂と呼ばれるようになったという[1]。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)に行円のもとで剃髪出家している。
保延6年(1140年)に多宝塔が落雷で焼失している。同時に法成寺の西塔にも落雷があり、こちらも焼失した。その後多宝塔は再建されたが、仁平元年(1151年)に多宝塔を始め多くの堂が火災で焼失した。
後に復興されるが、仁治3年(1242年)に住僧の放火により門や幾つかの建物を残してほぼ全焼してしまった。しかし、しばらくして再興された。
当寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)に起きた宝永の大火後には寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に再び移転している[1]。
文化12年(1815年)に本堂(京都市指定有形文化財)が再建された[1]。
近年は地域猫に餌場や寝ぐらを提供しており、「猫の寺」としても知られている。寺ではグッズの販売や募金を餌代として活用している。
幽霊絵馬
境内
文化財
京都市指定有形文化財
- 本堂
- 鐘楼
前後の札所
所在地
- 京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17


