韓系諸語
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馬韓語と百済語の関係
「辰韓は馬韓の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の秦の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。(『三国志』東夷伝・辰韓条)」とある。
辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。
辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと称している。城柵を立て、言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼ぶ。 — 三国志、巻三十
辰韓の言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた。『北史』新羅伝には「其言語名物,有似中國人」という記述がある。また、『後漢書』『三国志』辰韓伝には辰韓は秦の遺民の子孫とある。
新羅者,其先本辰韓種也。地在高麗東南,居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適,馬韓割其東界以居之,以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人。
新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。 — 北史、巻九十四
耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。
辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。 — 後漢書、巻八十五
『後漢書』弁辰伝によれば弁韓と辰韓は城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた[1]とされる。
『三国志』のほうが『後漢書』よりも史料的価値が高いとされるので、岡田英弘は弁韓と辰韓の言語の差は同じ言語の中での方言差とする説を唱えている。南部の弁韓、辰韓には韓人の他にも倭人も居住しており[2]、辰韓や弁韓の言語とされるものは「倭人語」を指している可能性もあり、注意が必要である。
馬韓の地域は後の百済になったが、馬韓語と百済語は異なっていたと考えられる。というのも、百済語は高句麗語と馬韓語の混合言語と考えられるからである。李基文は、百済において王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家だったとし、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した[3]。
百済の建国神話によると、百済の王族は扶余から出ているため、扶余諸語を話していたとみられる(扶余系百済語)。一方で百済の民衆は韓系諸語を話していた(韓系百済語)。
辰韓語と新羅語の関係
辰韓の12カ国は辰王に属していて、辰韓はそれで一つの政治勢力だった。辰王は新羅が台頭するまで馬韓人だった。辰韓の領域は後に新羅となるが、新羅語は現在の朝鮮語の直系の祖先であり、辰韓語がそのまま新羅語になったかどうかは不明である。