このような中、隣国の魯は変節外交を展開し、楚・斉の怒りを買うところとなった。だが、斉が密かに楚と通じている事も魯に知られる事になり、魯を通じて晋もこの事を知り、斉に対して怒りを覚えた。
紀元前589年(周定王十八年)、斉は機先を制して三軍を起こし、魯に侵攻した。一軍は魯を救おうとした衛を退けたが、魯を攻めている二軍の侵攻は芳しくなった。斉軍は魯に留まり、晋軍が出てくるのを待った。この時、楚軍が北上して斉軍と共に晋軍を伐つ手はずになっていたが、連絡の使者を勤めていた巫臣が任務を放棄して鄭に居座ってしまったために、連絡が途切れて協力体制が崩れ、斉軍だけで晋軍と相対せねばならなくなった。
6月18日、斉軍は華不注山に布陣した。その後、晋軍も斉軍も鞍に布陣して開戦した(そのため通常は鞍の戦いと呼ばれる。華不注山の戦いと呼ぶこともある)。最初は斉軍が元帥の郤克に重傷を負わせるほど優勢であったが、郤克の必死の逆襲で逆転し、斉軍は遂に潰走を始めた。その最中に大臣の高固が戦死した。頃公も晋軍に追われ、華不注山を3周して逃げ回ったという。頃公の車右は、頃公と立つ位置を代わり、頃公の兵車が晋軍の司馬の韓厥に捕まった時、自分が君主だと言って頃公の代わりに捕らわれ、頃公を逃がした。頃公は無事、首都臨淄に帰り着いたが、この戦役は紛れもなく大敗だった。