柳沢保恵
From Wikipedia, the free encyclopedia
柳沢氏傍系の越後柳沢家当主で黒川藩藩主の柳沢光昭の次男として、越後国北蒲原郡黒川村(現・新潟県胎内市)に生まれる[1]。幼名は利丸、前名は光敏。保恵の出生前に父の家督は養子で大和郡山藩藩主の息子である柳沢光邦(高家旗本武田信之の六男)がすでに継いでいた。
柳沢一族のなかの優秀な男子ということで本家の養子に選ばれ、明治19年(1886年)、旧大和郡山藩主の柳沢保申の次女秀子と婚約し養子となった(光昭も郡山藩主家の出身であり、保申は保恵の従兄に当たる)[2]。明治26年(1893年)10月27日、保申の死去により家督を相続。
養父保申の息子柳沢保承を自らの養子とした。
明治27年(1894年)7月、学習院を卒業。同年10月、ヨーロッパに留学、ドイツ、オーストリア、ベルギーの大学で統計学などを学んだ。当初3年間だった留学を6年間に延長。明治33年(1900年)9月、フランスやカナダなどに立ち寄り帰国した。
1902年(明治35年)9月15日、新たに設立された第一生命保険の初代社長に就任。役員は博文館社長で衆議院議員の大橋新太郎[注 1]、軍人の浜口茂之助。
1902年(明治35年)、農商務省で保険業法の起草に携わった、日本生命社医の矢野恒太が相互会社として創立した第一生命の、初代社長に就任。 1904年(明治37年)7月10日より貴族院議員となり[3]、予算委員長を務めた。大正7年(1918年)より東京市会議員となり、議長を務めた。 1913年(大正2年)7月、柳沢統計研究所を設立した。
1936年(昭和11年)5月25日、病状が悪化して危篤状態になる。御尋として天皇・皇后より菓子を賜るが、同日死去。同月28日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された[4]。
夫人の秀子との間に一男一女あり。長女露子は外交官岡本季正に嫁いだ。
