飯田元著
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前半生
毛利氏家臣で毛利水軍を率いていた飯田義武の嫡男として生まれる[1]。
弘治2年(1556年)1月8日、毛利隆元から加冠状を受けて元服する[2]。
門司城の戦い
毛利氏が九州に進出すると父の義武と共に従軍し、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦にも参加。同年11月5日に大友軍が門司から撤退するが、同日夜から翌11月6日にかけて、乃美宗勝が率いる小早川氏の警固衆や村上水軍[注釈 1]と共に大友軍を追撃し、豊前国の京都郡黒田原と仲津郡国分寺原の間で大友軍に立ち塞がって大勝した[3]。この時の大友軍への追撃において義武・元著父子はそれぞれ敵兵1人を討ち取り、共に12月13日に隆元から感状を与えられている[4]。
尼子氏との戦い
永禄6年(1563年)10月に尼子方の松田誠保が守る白鹿城が降伏すると、尼子義久の本拠である月山富田城は島根半島方面との連絡が遮断されて兵糧と武器の不足を痛感し始めた[5]ため伯耆国や但馬国方面に補給を求め、翌11月に但馬から来た数隻の兵糧船が出雲・伯耆の海岸沖合に現れた[6]。元就は義武・元著父子、児玉就方、山県就知、大多和就重らに命じて兵船数百隻に出雲国の美保関から伯耆国の弓ヶ浜沿岸に至る海上を警戒させると共に、福原貞俊に毛利軍の精兵と飛落元吉が率いる200人の鉄砲隊を付けて陸上の警戒に当たらせて尼子軍の兵糧輸送の阻止を図った[6][7]。
このような毛利軍の動きに対し、11月15日に月山富田城の尼子義久は兵糧や武器を護送するために夜陰に乗じて精兵を派遣[7][8]。尼子軍の動向を察知した福原貞俊が尼子軍と激戦を繰り広げたところに海上の義武・元著父子、大多和就重、児玉就方らも上陸し、福原貞俊の軍と協力して尼子軍を打ち破り、兵糧船を拿捕して兵糧や武器を奪取している[7][9]。
立花城の戦い
永禄11年(1568年)の立花城の戦いでは、同年11月頃から元就は北九州で毛利氏に味方する勢力の信望を維持するためにも大友氏に奪われた立花城の奪回を目指し、父・義武や吉井元武らが率いる水軍に立花城の防備を偵察させたが、その際に大友軍との小競り合いが起きている[10]。
永禄12年(1569年)8月10日、吉川元春と小早川隆景が父・義武に宛てて書状を送り、義武・元著父子の遠い九州での在陣を労いつつも今少し逗留するように求め、長門国長府に在陣する元就にも義武・元著父子の働きについて言上することを伝えている[11]。
元亀3年(1572年)1月8日、筑前国の立花山城の麓の浦辺で敵1人を討ち取り、毛利輝元から感状を与えられた[12]。
織田氏との戦い
天正4年(1576年)7月の第一次木津川口の戦いに参加し、同年11月8日に毛利輝元から木津川口の戦いにおける元著の肝煎について聞き届けたとの書状を送られている[13]。
天正6年(1578年)4月2日、播磨国において羽柴秀吉が援軍として警固衆を呼び寄せたことから、毛利輝元は児玉就英を通じて元著に小早川水軍と共に播磨国へ出陣することを求めている[14]。
年不詳であるが、毛利軍は輪番で行っていた懸け舟(船の停泊)以外については無案内な者が多かったことから、懸け舟以外についても元著が引き続き実施することになった[15]。吉川元春は児玉春種を使者として元著に書状を送り、元著の働きについて辛労ながら元著が担当することになり祝着であるとの旨を伝えると共に、もし何か別の御用があった場合はその御用を断って良いと伝えている[15]。
晩年
父・義武が天正4年(1576年)に大坂へ出陣した際に、義武への恩賞として周防国熊毛郡の大野において給地が与えられる約束となっていたが、大野の有力な土豪と考えられる中丸市允の抵抗により大野での給地宛行が滞っていた[16][17]。
天正4年(1576年)から天正6年(1578年)頃に大野の給地について、義武・元著父子の相次ぐ来訪を受けた穂井田元清はその懇意を喜ぶと共に、元清としても義武父子に対して疎意無きことを伝え、近日中に中丸市允が下向してくる予定なので、大野の給地について申し聞かせることを約束した[18][19]。しかし、それでも事態は解決しなかったようで、義武は確かに替地が与えられるように2回に渡って穂井田元清に書状を送っていたが、義武へ与えられる適切な土地が不足していたことで天正18年(1590年)時点でも約束の給地が与えられていなかった[16][17]ため、天正19年(1591年)には毛利輝元が直ちに義武に給地を与えるとの命令を出している[20][21]。
天正19年(1591年)11月5日、奉行人の佐世元嘉、二宮就辰、内藤元栄、林就長から備後国府中で100石の地を打ち渡された[22]。
天正20年(1592年)7月7日に父・義武が死去する[1]。
義武の死後のとある年の8月1日に輝元から越中守の受領名を与えられた[23]。
慶長6年(1601年)2月25日、まだ家督を譲っていなかった嫡男の元覚が死去したため、七男の元存が後継となった[24]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 299.
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第37号、弘治2年(1556年)1月8日付け、飯田彌七郎(元著)殿宛て、(毛利)隆元加冠状。
- 1 2 山本浩樹 2007, pp. 145–146.
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第6号、永禄4年(1561年)12月13日付け、飯田彌七郎(元著)殿宛て、(毛利)隆元感状。
- ↑ 山本浩樹 2007, p. 134.
- 1 2 高田郡史 上巻 1972, p. 320.
- 1 2 3 毛利元就卿伝 1984, p. 440.
- ↑ 高田郡史 上巻 1972, pp. 320–321.
- ↑ 高田郡史 上巻 1972, p. 321.
- ↑ 毛利元就卿伝 1984, pp. 554, 556.
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第17号、永禄12年(1569年)比定8月10日付け、飯田越中守(義武)殿宛て、駿河元春(吉川駿河守元春)・左衛隆景(小早川左衛門佐隆景)連署状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第16号、元亀3年(1572年)1月8日付け、飯田彌七郎(元著)殿宛て、(毛利)輝元感状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第46号、天正4年(1576年)比定11月8日付け、飯田七郎右衛門尉(元著)殿宛て、(毛利)輝元書状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第19号、天正6年(1578年)4月2日付け、飯田七郎右衛門尉(元著)殿宛て、(毛利)輝元書状。
- 1 2 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第29号、年不詳10月14日付け、飯田七郎右衛門尉(元著)殿宛て、駿河元春(吉川駿河守元春)書状。
- 1 2 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第27号、天正18年(1590年)比定9月18日付け、粟内藏(粟屋内蔵丞元種)宛て、(毛利)治部大輔元清書状。
- 1 2 廿日市町史 資料編1(古代・中世) 1979, p. 679.
- ↑ 廿日市町史 資料編1(古代・中世) 1979, p. 678.
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第26号、年不詳12月27日付け、飯田越中守(義武)殿宛て、四郎元清(穂田少輔四郎元清)書状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第40号、天正19年(1591年)比定1月26日付け、飯田越中守(義武)殿宛て、(毛利)輝元書状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第28号、天正19年(1591年)比定閏1月11日付け、(毛利)元清宛て、右馬輝元(毛利右馬頭輝元)書状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第52号、天正19年(1591年)11月5日付け、飯田七郎右衛門尉(元著)殿宛て、(佐世)与三左衛門尉元嘉・(二宮)太郎右衛門尉就辰・(内藤)与三右衛門尉元榮・(林)肥前守就長連署打渡状。
- ↑ 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」第36号、年不詳8月1日付け、飯田七郎右衛門尉(元著)との宛て、毛利輝元官途状。
- 1 2 『閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」家譜。
参考文献
- 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション - 高田郡史編纂委員会 編『高田郡史 上巻』高田郡町村会、1972年8月。全国書誌番号:73022373。
国立国会図書館デジタルコレクション - 廿日市町 編『廿日市町史 資料編1(古代・中世)』廿日市町、1979年3月。全国書誌番号:80021952。
国立国会図書館デジタルコレクション - 宇田川武久『瀬戸内水軍』教育社〈教育社歴史新書〉、1981年12月。全国書誌番号:82010891。
国立国会図書館デジタルコレクション - 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091。
- 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。全国書誌番号:21255499。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻132「飯田七郎右衛門」