馬万
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経歴
若くして従軍し、水泳を得意とした。晋王李存勗が黄河で梁軍と対陣すると、徳勝口に黄河を挟んで南北に寨を建てた。梁軍が南寨を急攻し、中流に戦艦を連ねて救援の路を絶ち、3日にわたって昼夜に南寨を攻め立てた。南寨の将の氏延賞は李存勗に危急を告げた。李存勗は黄河を隔てて北側におり、泳ぎを得意とし、敵中を突破できる者を求めた。馬万の兄弟はこれに応募し、ひそかに南寨に潜入し、往来すること3回、さらに戦艦を焼くのを助けた。梁軍は撤退した。これにより馬万は水軍小校に昇進した。のちに禁軍をつかさどり、刺史を遥領し、奉国軍左廂都指揮使・泗州防禦使に累進した[1]。
後晋の天福2年(937年)夏、范延光が興唐府で反乱を起こすと、牙将の孫鋭が兵を率いて黎陽県にいたり、朝廷は侍衛親軍馬軍都指揮使の白奉進を派遣して滑州に渡らせた。馬万は白奉進に同行した。ときに義成軍節度使の符彦饒はひそかに范延光と通じ、白奉進を滑州の牙城で殺害した。馬万は兵を率いて符彦饒を助けようとしたが、奉国軍右廂都指揮使の盧順密がまた兵を率いてやってくると、順逆を諭されて、馬万は盧順密とともに公府に急行し、符彦饒を捕らえて開封府に送った。馬万は義成軍節度使とされたが、盧順密への恩賞は少なかった。高祖石敬瑭が滑州での事情を知ると、盧順密を涇州節度留後とし、馬万への恩賞を少なくした。馬万は威勝軍節度使に転じた[1]。天福7年(942年)、右驍衛上将軍に任じられた[2]。開運2年(945年)、眼病のため左金吾衛上将軍として致仕した[3]。