駿河竹千筋細工
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駿河竹千筋細工の名称
日本全国には、別府や北陸地方など多くの竹細工製品の産地がある。それらの産地と駿河竹千筋細工を比べた時の最大の特徴は、他産地は平ひごを編んで作るのに対して、駿河竹千筋細工は丸ひごを組み上げていることにある[3]。丸ひごを使う特徴は、元々鳥籠や虫籠を作っていた技術によって生まれた[4]。
駿河竹千筋細工は枠となる竹に穴をあけ、丸ひごを通し組んでいく構造である[5]、製品を完成させるまでの工程は多いときで100以上の工程があり[6]、一人の職人が[7]、材料の入手から製品の完成までほぼ全ての作業を行う[8][1]、家内制手工業である[8]。
駿河竹千筋細工の「千筋」という名称がいつ頃から使用され始めたかは詳ではない[9]。「千筋」の名の背景には諸説がある[10]。一説によれば、畳の横幅(約91センチメートル)に竹ひごを並べると千本のひごを並べられるほど細いからと伝えられている[10][11]。また一説によれば、駿河竹千筋細工は、利用する際、売買をする際ともに、細ひご千本を一束として扱っていたことが元に竹ひごそのものが「千筋」という名称になったとも伝えられている[9]。他にも、駿河竹千筋細工は、竹の繊細な繊維を利用した極めて細い筋がひご状になったものが使用されているため、繊維の筋、すなわち「繊筋」が「千筋」になったという説も存在する[9]。
駿河竹千筋細工に用いられるひご

ひご(籤)は、丸ひごと菓子器や盆類などの底や蓋を編む平ひごに大別される。駿河竹千筋細工は昔から丸ひごを主に作られてきたが、近年では平ひご、角ひご、皮付きひごなどの特殊なひごも用いられる[12]。
駿河竹千筋細工の職人の間では、ひご通し(→#生産工程)をし、丸みを帯びたものをひごと呼び、ひご通しをしていなく角がある現段階の竹は、へごと呼んで区別している[13]。ひご作りは20以上の工程から成っており、ひごは駿河竹千筋細工の重要な素材である[6]。
ひごには、節と節の間が長く、幹がまっすぐなマダケが適している。その中でも、水分が多く含まれ、ひごに加工しやすい、やわらかい青竹(生で幹が青い竹)の状態に伐採されたものが用いられる[14]。最も丈夫な部位かつ色艶があるため[15]、竹の表皮に一番近い「あま皮」がひごづくりに使用される。あま皮は竹の表皮のすぐ下にあり、全体の5分の1の厚みがある。なお、残りの5分の4にあたる肉の部分は輪や底を作るのに使われる[14]。ひごは自家製であるが、専用のひご屋から入手することもあった。昭和30年代には、静岡市内に数軒ひご屋があった[12]。また、必要に応じ、ひごを染めることもある。染料は、原料屋から入手し、ステンレス製の缶で煮染めにする。例えば、煤色に染色する場合は、塩基性染料の茶粉を主体とし、よく染まるようにするための染料を僅かに入れて煮る。その後、水洗いをし、半日ほど天日干しを行う[16]。
丸ひごを用いる技法は、駿河竹千筋細工の特徴的な技術の一つで、竹の虫籠や鳥籠の中に入る虫や鳥の口髭や羽を傷つけないようにするための職人の気遣いから生まれた[10][17]。丸ひごは、0.8ミリメートルから3ミリメートルのものが用いられる。中でも特によく使われるのは、1.3ミリメートルや1.6ミリメートルの丸ひごである[18]。
製品
地理的背景
歴史

かつて駿府と呼ばれた静岡市では、その竹で古くから竹細工が作られており、それらは駿河竹細工[24][25]や駿河細工[3][23]と呼ばれていた[21]。のし細工、文人細工、九十九羅(つづら)細工などと呼ばれる種類がある[26]。
1947年(昭和22年)、登呂遺跡から籠笊(かござる)が発掘されたことから、すでに生活用具として根付いていたことが窺え[27]、駿河竹細工の起源は弥生時代まで遡ると考えられている[7][28][17]。
江戸時代
駿河竹細工が文献上に現れるのは江戸時代からであるため、江戸時代初期には静岡市周辺が産地として確立していったのではないかと推定されている[29]。駿河国の地誌である『駿河国新風土記』には、寛永年間(1624年-1644年)、駿府城下七間町に、枕・虫籠・夏笠・視箱などの竹細工品を売る店が出ていたと、記述があるように、この時期には既に静岡の特産品になっていた[21][28]。江戸時代の俳諧師・上島鬼貫が江戸への旅の途中、静岡で「虫篭を買ひて裾野に向ひけり」[注 1][29]と詠んだことから、江戸時代前期には名物になっていたと窺える[13][23]。
駿府は、徳川家康のお膝元といわれる地で、家康は駿府の川を治水し、町を整え、城下町の整備振興に精力的に取り組んだ。そのため、駿府にはたくさんの職人が集まり、「職人の町」[30]として手工業が栄え、たくさんの伝統工芸が残っている。家康が駿府国で隠居していた際に鷹狩りの餌箱を竹ひごで作らせ、趣味のために美を追求していったことにより、洗練されたものが作られるようになってゆき、発展していったと考えられている[31]。故に、竹千筋細工は家康ゆかりの工芸品である、と紹介される場合もある[13]。
駿河竹細工は下級武士の内職によって支えられた伝統という面もある。寛永年間(1624年-1644年)江戸の諸侯や幕臣の間で狩猟や旅行に際して籐編笠が流行していたが、この頃は藤の原料が非常に高価であった。これに随して製品も高価であり、一般の需要に適さなかった[32][33]。代用品として駿府草深の同心たちが苦労して制作した竹製の編笠が、江戸で流行していた籐編笠よりも安価で、かつ、武士の嗜好に適していたため需要が増し、武家、町人を問わず旅人の必需品となった[25][34]。駿府草深の同心40余戸は内職として竹製の編笠の制作に従事した[21]。
1623年(元和9年)、江戸城で花見の宴会が開催された際、参加していた天海僧正が眠くなり、枕を所望したところ、駿河竹細工の籠枕が差し出された、と駿河国の地誌である『駿河雑志』に記述されている[29]。江戸城内では、竹編みの枕が駿府で作られ、愛用され、さらに高度な竹細工を作りたいと考えていた[13]。
駿河竹千筋細工の起源は、1840年(天保11年)、三河国(現在の愛知県東部)の岡崎藩士である菅沼一我が、諸国を行脚していた際、駿府の下級武士が作る内職の編笠を見て、静岡に立ち寄り、宿泊先であった「はふや」[注 2]の息子である清水兵衛に懇願され、技術を教えたことだとされている[35]。その後、清水猪兵術は山本安兵衛や佐藤吉衛門[35]などの門弟を多数育て、菓子器や虫籠を世間に広めたといわれている[3]。駿河竹千筋細工は、江戸時代中期以降の静岡県の名物土産になった[29]。
明治時代
1873年(明治6年)に開催されたウィーン万国博覧会には、日本の特産品として駿河の竹器、手提げ類、菓子器、虫籠、鳥篭が殖産振興のため出品され[24][27][7]、日本独自の工芸技術として、高く評価された[38]。これを契機に海外への輸出が盛んになった[3]。主に戦前は、ヨーロッパ向けに輸出が盛んだった[13]。駿河竹千筋細工は武士の内職で作られていたが、明治維新後、本業とする者が現れるようになっていった[13]。
横浜や神戸の開港以降、海外への販路が開け、菓子器や盆類などの駿河竹千筋細工が盛んに製造、輸出された[39]。そのため、駿河竹千筋細工の専業者は、40戸に及び[25][39]、年間生産額は当時の金額で数万円に達した[注 3][39]。組合の必要性を感じた石原亀太郎、水谷賢三郎、飯田竜太郎らが主唱し、1909年(明治42年)に静岡竹細工組合が設立した[39]。
1910年代から1920年代にかけて駿河竹千筋細工のデザインが豊富となった[41]。内部を絹張り加工し、泥絵具で花鳥柄を描いた籠類が欧米で好評で盛んに輸出されたり、大村五郎が考案した静岡本染花籠が全国的に人気を博したりした。そのような多くの人の研究努力の結果、駿河竹千筋細工は、博覧会で受賞をするなど高い評価を受けるようになった[41]。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって、貿易に頼っていた静岡県の竹細工業界は甚大な損害を被った[42]。1924年(大正13年)から昭和初期頃には震災の影響もなくなっていき、煙草セット、菓子器、盆類が出回り始めた。1927年(昭和2年)頃から景気の良い時代になるにつれ、竹細工の注文は増加した[42]。
昭和時代以降
1931年の満洲事変をきっかけに日中の対立は深まり、1937年の盧溝橋事件で日中戦争が本格化した。やがて日本はアメリカとも対立し、1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争へ突入した。戦時下では物資や食糧が不足し、国民は軍需産業に動員された。1940年(昭和15年)、統制時代の最中、非軍需産業向けの物資は統制され、漆や膠、釘、木炭などの竹細工製作に不可欠な材料が配給制となり、静岡県の竹細工業界は大きな打撃を受けた[43]。このため、工業組合法に基づく組合の設立の必要性を感じた鈴木実造、海野熊太郎、杉山三司、川福作一、相川金吾、大村勝次、杉山忠治、鈴木菊次郎、大村市太郎らが発起人となり、発起人会を開いた[43]。その結果、1941年(昭和16年)4月12日、鈴木実造を理事とし、静岡竹器工業組合が発足した[43][44]。竹細工の主原料である竹材は、配給制ではなく自由に購入できたものの、製品自体が戦時必需品でなかったため、組合事業は振るわず、組合員は20戸余に減少した[45]。静岡竹器工業組合は、組合から施設組合に組織を変更し、1944年(昭和19年)7月に静岡竹器施設組合、1947年(昭和22年)4月に静岡県竹器工業協同組合に改称された[46]。組合事業として配給品の配給以外の活動はなく、1949年(昭和24年)5月4日に組合は解散した[25][47]。第二次世界大戦前後に、実際に就業している人はほとんどいなかった[41][47]。
それでも、貿易再開への努力がされ、1950年(昭和25年)には、任意団体である静岡竹器組合[48]、静岡行籠製造組合に分かれ、輸出向け製品が生産された[41]。アメリカ向けの生産が主だった[13]。この頃から組合に参加せずに直接デパートなどと取引する業者や、問屋を介さずに貿易商に製品を売る業者など、戦前には無かった販売形態も出てきた。そして、千筋細工は、問屋制手工業製品から、工芸作品へと移りつつあった。1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)にかけて注文は潤沢にあり、生産高は年々増加し、1960年(昭和35年)には最盛期となり、業者は70軒ほどになった。戦後の製品は、染めない、生のままの竹を使っている特徴がある[41]。
これまでの駿河竹千筋細工は、安倍川・藁科川流域のマダケが主な原材料であった。マダケには、開花枯死と呼ばれる、120年に一度の周期で全国一斉に開花し、実がなり、その後、一斉に根ごと枯れ、竹林が消滅していく現象がある[49]。この現象は1963年(昭和38年)、マダケで有名な京都嵯峨野で発生し、1965年(昭和40年)にはマダケが全滅した。同じ頃から、安倍川・藁科川流域のマダケに開花枯死の影響が及び、これまで竹林の7割を占めていたマダケは4割に比率を落とした[49]。その後は回復してきているものの、開花枯死を契機に転用された竹林は相当数に及んだ[50]。竹は古くから衣食住の多様な用途に利用される有用植物である。しかし、現在では農業にも林業にも該当しないため、竹を扱う担当部署が役所に存在しない。都市近郊の竹林が都市化の波に呑まれても竹林保護の有効な施策は講じられず、竹林の生産は、「行政の谷間」にあると言われている[49]。近年では自然淘汰や育成管理の不十分を要因として、安倍川・藁科川流域のマダケ出荷量が著しく減少したため、組合員68人の年間消費量約4000から4500本に対し、市内の竹材商の供給量は約2000本程度と竹が不足する事態となった[49]。
1960年(昭和35年)10月、当時組合長であった飯田義造が飯田線で旅行中、車窓から見える天竜川山間部に繁茂する竹林を見つける[51]。同月15日に豊丘村森林組合と交渉をし、近き将来には年間4000本以上の竹材を購入すること、晒竹にし、出荷すること等を条件に双方合意した[52]。これらの竹は組合で購入金額に応じて量を組合員に分配する共同購入の形をとった[53]。この契約以降、静岡竹器組合は、毎年4000から5000本の晒竹を購入[54]。静岡市近隣の山村からも約2000本供給された[54]。
1970年に起きたドルショックが駿河竹千筋細工の輸出に直撃し、転業者が増えた。それが原因となり1970年代は駿河竹千筋細工にとって最も苦しい時期となった[55]。研修事業などへの補助金が得られることから、打開策として静岡竹工業協同組合は伝統的工芸品への指定を申請し、1976年(昭和51年)12月15日、駿河竹千筋細工は伝統的工芸品産業の振興に関する法律に基づき、経済産業大臣指定伝統的工芸品に静岡県内で初めて指定された[55][56]。この指定を受けて、駿河竹細工や駿河細工と一括りに呼ばれていた名称は、駿河竹千筋細工と正式に命名された[13]。また、指定以降、毎年、組合の技術研修会やデザインの新作発表会が行われている。なお、新作発表会はテーマを決めて行われ、毎年50から60点程展示される[56]。
原材料と道具

駿河竹千筋細工の原料は、主にマダケ(真竹)とハチク(淡竹)である。かつては、繊維が細かく、細工に適するハチクを多用していたが、ハチクは大物材が少ないためマダケが現在の主流である[50]。他には、補助的な役割としてモウソクチク(孟宗竹)、個性的なデザインにする役割として、クロチク(黒竹)やネダケ(根竹)が用いられることもある。竹以外では、合成接着剤、木材、合板が使われている[14]。
道具
- 鉈(なた) - 竹を割ったり裂いたりするのに使われる道具。
- 分定(ぶぎめ) - 竹を割るときの目印をつけるために使われる道具。定規の代わりに使われ、棒の先の少し下に2本の釘が打ち込まれている[58]。
- へごこき - 丸ひごを作る工程のへご引きで使用される道具[58][59]。長さ5センチメートルほどの厚い鉄板にひごの直径に合わせて穴を開けておく。穴の切れ味が悪くなると表面を研いだり、別の穴を開けたりするため、古いへごこきには沢山の穴が開いている[59]。近年のへごこきは、金属製のL字型へごこき台に必要なサイズのへごこき盤が差し込めるようになっている。穴の表面に突起があるため昔のへごこきより切れ味が良くなった[59]。
- 胴乱(ドーラン) - 竹を曲げる道具[60][61]鉄製の胴体を熱し、それにクチビロと呼ばれるはさむ道具で挟まれた竹を巻きつけて曲げる[60][61]。胴乱は、1941年(昭和16年)に杉山久次郎によって考案された[60]。第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)頃からは固定型の胴乱が普及した。鉄枠の上部に曲げ型の本体を、下部にはガスコンロを設置してあり、ガスコンロを熱することで本体が温められ、それに竹を巻きつける[60]。現在は、炎の調節のしやすさから石油コンロを使う[61]。
生産工程

本項では一般的な駿河竹千筋細工の生産工程について記述する。ただし、製品によって細かな生産工程は異なる。
1.竹の入手
伝承によれば、 かつて竹の職人は「雪の富士山が一番綺麗に見えるようになったら竹を切る」と言い習わされていた[14][15]。雪が積もった富士山が見えるようになる冬の寒い時期は、一年の中で竹に含まれる油分が最も多くなり、竹が丈夫になる[14]。そのため、現在でも竹の切り旬(竹を根元から切り離す時期)は、冬である。その中でも生えてから3から4年くらい経った竹は、水分量が程よく減っているため、固くなりすぎず、皮の剥きやすい状態で駿河竹千筋細工に適している[62][8]。
2.油抜き(煮出し・乾燥)
生竹には水分や油が含まれており、切ったままでは腐ってしまい[8]、竹の弾力・強度・耐腐性などの良さを保持できなくなってしまうため[50]、1週間以内に油抜きを行う[8]。
明治・大正期の加工方法
まず、丸竹を1コロ4m程の長さにし、最下部の節以外の節を取り除き、竹筒を作る。次に、大釜で沸かした熱湯を先ほどの竹筒に柄杓で注ぎ入れる(ユツギ)。やがて、最初にユツギをした湯が冷めると、今度はそれを大釜に戻し、沸かし直し、次のユツギに使う。ユツギが終わると、竹筒を鉈で半割れする。それを20日から1ヶ月ほど屋根や空き地で天日に晒す。大正期までの竹細工職人の家の屋根はほとんど杉皮葺の平屋であったため、日当たり、風当たりの良い屋根は恰好の晒し場であった。なお、屋根で晒す場合は簾状に縄で両端を連結していた。これらの作業は、座職である竹細工職人にとって重労働であったが、向こう一年間の材料仕込みであるため、この日は赤飯などで祝ったと伝えられている[50]。
昭和期以降の加工方法
3〜4尺の長さに切った丸竹を、苛性ソーダを少し混ぜた100℃の熱湯の入った釜にいれ、10から15分ほど茹で、表面の汚れやヤニをとる[8][63]。その後、カビが生えないように、できるだけ冬の寒い時期に[62]、日当たり、風当たりの良い場所にそれを並べ、20日以上天日干しする。この間に、雨に当たった場合はカビが生える。無事に晒せても1割以上の竹にシミができてしまう。そうした竹材は薪にする[64]。また、戦時中に、戦災で釜を失った時は、ドラム缶で代用した[63]。天日干しした竹の表皮が象牙色になると、室内で1から2年寝かせ、完全に乾燥させる[8]。
かつては、職人が自ら竹林で入手材を選び、切り出し、油抜きをし、サラシダケに加工していたとされているが[50]、現在は竹屋からサラシダケ(晒竹)を入手している[65]。
丸ひご作り
水分を含み、加工しやすい青竹の特性を利用するために、竹伐採後、職人はすぐにひごづくりをし、冬の間に一年分のひごを作り溜めする[14]。
1.材料寸法取り
ひごづくりに節を用いらないため[59]、伐採した後12尺(約3.6メートル)ほどある竹を、一節(約30センチメートル)ごとに輪切りにする。厳密には、節の部分は硬いため節前後の柔らかい部分を切る。輪切りにした切り口は「竹口(こぐち)」と呼ばれる[66]。次に、竹表面の傷や汚れを取り除くため[30]、小刀を使って、竹の表皮の青い部分を、ごく薄く削り取り[8][67]、竹口に分定(ぶぎめ)で、たて割りする時の目印にするための「割りじるし」を約1センチメートルの幅でつける[67]。分定は、定規の代わりに使われ、棒の先の少し下に2本の釘が打ち込まれている[58]。まず、竹を半分に縦割りし〈大割り(おおわり)〉、割りじるしごとに縦割りする〈中割り(なかわり)〉[68]。中割りを終えると竹は約25等分になる。竹は縦に繊維が通っているため、鉈で切り込みを入れると少しの力で割ることができる[30][68]。
2.厚さ・幅決め
鉈で竹の裏(内部)の肉部は、柔らかくひごづくり[14]に使えないため、取り除く[59]。「はぎ」または「へぎ[13]」と呼ばれるこの作業は表皮側の繊維を痛めないようにするため、2回に分けて慎重に行う[68]。はいだ(へいだ)竹は、約5ミリメートルほどの厚さになっているが一定の厚さにするため、剪台を使い薄く削る[8][68]。
長さ、厚さは一定になったため、次は幅をそろえる。台の上に立てた刃で竹口から2-3センチメートルを1ミリメートルの幅で切り込みを入れる〈小割り(こわり)〉を行う[69]。水分の少ない青竹を使用する場合、小割りを終えた竹を丸一日以上水に浸しておき、その後くじきを行う[62]。片方の手で竹の下方を持って支え、もう一方の手で小割りした部分を持って、指でもむ(くじく)ようにしながら力を入れ割る(くじき)[8]。竹は切りこみにそって真っ直ぐに割れていく[69]。これはしなりが強く丈夫な日本の竹だからできる技である[8]。次に、へご引きの際にひごこきの穴に入りやすくするため[70]、竹の先を小刀で尖らし(スエツキ)、一本一本をばらす。ばらされたものは「シタ」と言われる。例えば直径1ミリメートルの丸ひごを作る場合は幅1.1ミリメートル、厚さ1.2ミリメートルのシタを作る[59]。
3.へご引き
この時点でのへごにある角を落とし、丸みを作るため、へご引きをする[70]。へごこき台のへごこきに開いた穴(丸刃穴(マルバアナ))にシタを通し、ヤットコで挟んで引き抜き[71]、削る[59]。
へごこきには、長さ5センチメートルほどの厚い鉄板に穴がさまざまな穴が開いている。この穴は、ひごの直径にあわせてあけられ、へご引きの回数を重ねるごとに少しずつ小さく穴に通していく[70]。荒引き、中引き、仕上げ引き[72][8][30]の3度へご引きをする3度引きで仕上げることもあれば、2度のへご引きをする2度引きで仕上げることもある[59]。機械を使い、ひごにする方法もあるが手作業の方が綺麗な丸みに仕上がる[72]。
形の揃った丸ひごはアクを抜く為に熱湯でさっと煮る。すると、竹の青い色は抜けて、薄い肌色へ変化し、丸ひごは完成となる[70]。
4.ひご曲げ
まっすぐなひごのまま使う場合は、前述の工程で完成であるが、多様な形の竹細工を作るため[30][73]、それを外側や内側に曲げ、曲げひごを作ることもある[72]。ひご曲げは、駿河竹千筋細工の特徴的な技術の一つである[72]。
30から40本の丸ひごの両端をハサミと呼ばれる竹の器具で挟み、束ねて固定し、温められた電気ごてにあてて焼き、曲げる[74]。電気ごては直径2センチメートルのものから15センチメートルほどのものまであり、必要に応じて使い分ける[30]。熱されたひごに、息を吹きかけ冷やし、固定し、必要な長さに切る[74]。
- 1.材料寸法取り - 表皮を削る
- 1.材料寸法取り - 中割りする。
- 1.材料寸法取り - 竹の内部がある状態(右)と取り除いた後(左)。
- 2.厚さ・幅決め - 小割りする。
- 2.厚さ・幅決め - くじきを行う。
- 2.厚さ・幅決め - 先端を尖らせる。
- 2.厚さ・幅決め - ばらす。
- 3.へご引き - へごこきにあいている穴。
- 3.へご引き - 左から順に荒引き、中引き、仕上げ引きを終えたひご。
- 4.ひご曲げ - 電気によって熱される電気ごて
- 4.ひご曲げ - 曲げらたひご
縁作り(輪作り)
縁はひごを固定させる製品の枠で、形状の基幹の役割を果たす[75]。縁に丸ひごを挿すことで、多様な曲線や直線が生み出される[75]。
縁には底縁、中縁、上縁の3種類がある。それぞれ台輪(ダイワ)、中輪(ナカワ)、上輪(ウワワ)と称されることもある[76]。底の部分に使われるのが底縁で、一番上に使われるのが上縁、上縁と底縁の間にあるのが中縁である。上縁のことを口縁(コウエン)ともいう[75]。中縁は、製品の形状によって複数使われることもある一方、中縁を使わない製品もある[76]。
1.材料寸法取り
前述の丸ひご作りの2.厚さ・幅決めの厚さ決めまでと同様の工程を行いできた竹材(縁材)を用い、縁づくりを行う。
2.曲げ
縁の形は、丸、四角、六角、八角、扇面、隅切りなどがあり、それらの多様な形は曲げの作業によって作られる。曲げの作業は、熟練した技術が必要とされ、昔から「曲げが上手になれば一人前」と口伝されてきた[77]。
戦前は、こてを七輪の炭火で加熱し、そこに縁材を当て、両手で曲げて縁づくりをしていた[61]。縁材は皮部でできているため、相当高温にしなければ曲がらず、さらに、熱した縁材を素手で曲げていたため、まるで火を掴んでいるような感覚だったという。1つのコテであらゆる形状に曲げていたことから、高度な技術が求められた[61]。
戦後、さまざまな大きさの電気ごてや胴乱(前述)を用いて曲げられるようになった[61]。胴乱を熱すると、5分ほどで側面が適切な温度に上昇する。クチビロと呼ばれる道具で縁材の両端を挟み、そこに当てがい、巻きつける。巻きつけられた縁材は、さまし(曲げが戻らないようにする型枠)に入れられ冷やされる[61]。温度が下がると曲がり固まる[8]。胴乱を用いると作業が容易であり、また、曲げの本体の大きさを変えれば多様な大きさの曲げを作れるため、作業効率が向上した[61]。
3. 継ぎ手
曲げた縁竹の両端を小刀で斜めに削る(斜め切り)[8]。接着剤を使い、両端を交叉状に接着し、ハサミダケで固定する(斜め継ぎ)[12]。斜めに切るのは、接着面を大きくし、しっかり接着させるためである[78]。接着剤は、かつて、湯煎した膠が用いられてきたが現在では強力な合成接着剤を使用する。
底づくり

底は、平ひごを編み作られる。竹細工には多様な編み方があるが、駿河竹千筋細工には殊に「南京編」や「網代編」が多く用いられる。南京編の正式名称は「六ツ目小紋菊編」で、編み地の模様が小菊に似ていることからつけられた[79]。網代編は全国的に最も広く使われる編み地で、多様な種類がある[79]。
1.材料寸法取り
晒竹を用いる場合は一晩水につけたものを用い、生竹を用いる場合は平へご完成後に10日程度日に晒す[16]。竹を縦割りし、竹の表皮を鉈で削り取った後、肉部に小刀を入れ、薄く剥いでいく[79]。薄く剥がないと編みにくいためである。薄いものでは、およそ0.25ミリメートル程度になる[16]。その後、剪台を用いて何回も厚みを整えることで平へごが完成する[16]。
2.編み
数本の平へごを平らに並べ、編針で一枚ずつずらしながら別のへごで編んでいく。編み終わると刷毛で糊を編み地に塗り、固定する。糊が乾くと寸法に合わせ花鋏で切り取る[80]。
4.組み立て
縁にボール盤を用いて穴を開け、そこに丸ひごを差し込む(ひごさし)[81]。ひごさしの方法にはには、ひご同士を交差させてさす「矢来」等の多様な種類がある。次にひごと縁の結合部を糊付けし、自然乾燥させる。編まれた底を縁に糊付けし、そこを押さえるように「かご止め」をはめ込む(底入れ)。それにより、底は縁と「かご止め」に挟まれ強度が増す[81]。
駿河竹千筋細工の職人
機械化が進む近年、駿河竹千筋細工は依然として手作業が多く、また非常に労働集約的な産業であるため、一人前になるには5-10年かかると言われる若い後継者の育成が課題となっている[3][82]。
職人の民俗
駿河竹千筋細工は、もともと幕臣などの士族の内職として発展したものであり、明治時代から大正時代にかけて、この技を生業とする人々は誇り高く気位も高かった。そのため、彼らは筒袖に羽織、兵児帯という装いで、他の職人たちとは一線を画し、風流を重んじる姿勢を誇示していた[83]。
明治末期から大正初期にかけては、子弟は、縞の襦袢の下着に、縞の地織り(縞木綿)[84]、あるいは筒袖に兵児帯、有り合わせの前掛けを膝に当て、仕事をしていた。一方、成人は袂の着物に襷掛けの格好で仕事をしていた[83]。やがて、ズボンが外出時に着用されるようになり[84]、1920年(大正9年)頃から仕事着がシャツやズボンという現代的服装へと変化した[83]。
昭和初期ごろまでは、仕事場は住居と兼用する場合が多く、平屋であった。しかし戦後、大型機械の導入により、仕事場は住居から独立するようになった[84]。
職人は午前7時ごろの日の出とともに就業し、夏季は19時終業、冬季は21時、22時まで仕事を続けることが一般的であった。特に年末年始目前の節季は、23時、24時まで隣近所で競争をしながら作業し、場合によっては2、3日徹夜することもあったという[85]。休日は毎月1日と1日、お盆と正月で、年末は三十日まで仕事をし、翌日の大晦日は片付けをしていた。正月2日には仕事始めであった[86]。かつては神棚または床の間に竹引き鋸と小刀を飾ったと言われているが、現在はその風習はなくなった[86]。
弟子入り
明治時代、一般庶民の間では男子は将来のことを考えて手に職をつけることが本人のために最良の選択であると考えられていた。大工、左官はもとより俗に居職と呼ばれた塗師屋、指物屋、竹千筋細工などの技術を身につければ一生食いっぱぐれがないと信じられ、多くの若者が修行のために「年季奉公」に出た[87]。「年季奉公」の期間は、時代により異なっていた。明治30年頃の教育制度は、尋常小学校が4年制、その上に位置する尋常高等小学校も同じく4年制で構成されていた。多くの子弟は、満13歳で尋常小学校を卒業し、その後、満20歳で徴兵検査を受けるまでの約7年間を、「年季奉公」に従事するのが一般的であった。加えて、「お礼奉公」と称し、さらに6か月から1年ほど奉公期間を延長する慣習も見られた[88]。
弟子入り後、初めの2年間は子守や家事の手伝い、家の掃除をし、仕事らしい仕事ができるようになるのは3年目くらいからだったと言われている[82][88]。明治期では、フチやひごの曲げ、膠の湯煎などに炭火を使っていたため、七輪用の炭を切ったり、火を起こしたりするのは弟子の仕事の一つであった[88]。竹細工は刃物で作業することが多いため、常に刃物研ぎをするため砥石の面(トズラ)が凹みやすい。それを擦り合わせ、凹みを直す、「トズラ直し」という作業も弟子が行っていた[82]。仕事に口答えすることは許されず[88]、黙々と下積みを続ける中で、親方の技を横目で盗み見ながら、弟子は竹細工の基礎を身につけていった[82]。終業や休日に技を磨き、兄弟弟子に仕事を教えてもらうこともあったという[85]。休日の毎月1日、15日は年齢によって小遣いが支給された。お盆(7月)と節季(12月)には、「お仕着せ」が与えられ、大抵は着物や履物であった。また、お盆と節季の2回は泊まりがけの里帰りが許され、特に奉公に来て間もない12、13歳の子供にとってはなんとも言いようがないほど嬉しかったと伝えられている[85]。20歳になると、「年季奉公」の期間が終了する。終了すると、最低限の仕事道具一式と羽織などが贈られ、「お礼奉公」のお礼として箪笥が贈られることもある[89]。
1923年(大正12年)の関東大震災発生以前は駿河竹千筋細工の輸出が盛んだったこともあって、他の職人に比べ収入が良かったため、弟子の希望者も多く、時には身内でないと弟子にしなかったこともあると伝えられている[86]。
2003年(平成15年)4月1日から静岡市は、駿河竹千筋細工を含める静岡市内の地域産業の活性化や後継者育成のため「クラフトマンサポート事業」を実施している[90]。現在ではその制度を利用し、駿河竹千筋細工協同組合と連携して、5-10年ほど修行を積み、独立することが一般的となっている[91]。現在では、駿河竹千筋細工を一生の仕事とし、高い技術を持つ人は学問や教養がなくても人として筋の通った生活をしている人が多いと伝えられ[15]、最低でも5年は修行が必要だとされている[75]。
伝統工芸士
1976年(昭和51年)、駿河竹千筋細工が経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された際、一般財団法人伝統的工芸品産業振興協会が[92]、高度な伝統技術の保持者をその伝承に必要な指導者として「伝統工芸士」に指定した[82]。指定時は7人が伝統工芸士に指定された[82]。また、静岡市は、駿河竹千筋細工の職人5人を伝統工芸の職人として優秀な技術を有し、産業の発展と技術の継承に顕著な功績を持つ「静岡市伝統工芸技術秀士」として指定している[93]。