高橋章
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1938年(昭和13年)2月11日、満洲国(遼寧省)に生まれる[4][3]。父親は日本郵船の大阪支店長を務めており、満州は父親の赴任先であった[2]。終戦後は姫路で暮らした[2]。もともとは絵描き志望だったという[1]。
1965年(昭和40年)、学生時代に大映初の怪獣映画『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)の特撮現場にアルバイトとして参加[1][2][3]。「操演スタッフ」としてミニチュアの操演や破壊の撮影に従事する。この『ガメラ』の美術スタッフには、八木正夫・三上陸男・村瀬継蔵・鈴木昶らがいた。同年、八木は三上や村瀬、鈴木らこの時集まったメンバーとともに、造形会社「エキス・プロダクション」[注釈 1]を創設。
1966年(昭和41年)、東宝の怪獣映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)に特撮美術スタッフとして参加[1][2]。東映で『黄金バット』(佐藤肇監督)に前澤範とともに参加するが、現場の方針が合わず、二人とも3日ほどで現場を離れる。
1967年(昭和42年)、松竹映画初の怪獣映画『宇宙大怪獣ギララ』(二本松嘉瑞監督)に特撮美術スタッフとして参加[1][2]。この他、アルバイトであちこちの映画の現場に関わる。
1969年(昭和44年)、東宝映画『緯度0大作戦』(本多猪四郎監督)で、エキスプロのスタッフや前澤範とともに怪獣「グリフォン」、「大ネズミ」を数体作った。NMCプロの特撮テレビ番組『魔神バンダー』(フジテレビ)では、前澤と二人で特撮の撮影助手を務めた。
1971年(昭和46年)、エキスプロが東映のテレビ番組『仮面ライダー』(毎日放送)の美術全般を担当することになるが、当初参加していた三上陸男が多忙であったため、クランクイン前に旧知の高橋と前澤に参入を呼び掛ける[1][4]。前澤のスケジュールが合わなかったため、高橋が三上の後任として参加することとなり、エキスプロの契約スタッフとなる[1][2][3]。そして、助手として八木功を呼びよせた[1]。
以後、東映生田スタジオを拠点に、敵組織「ショッカー」の怪人デザインや美術造形全般を手掛ける[1][2]。続いて『好き! すき!! 魔女先生』(朝日放送)の美術を担当[2]。
1972年(昭和47年)、『仮面ライダー』、『変身忍者 嵐』(毎日放送)、『超人バロム・1[注釈 2]』(よみうりテレビ)などの「変身ヒーロー番組」で「怪人」デザインを始め、美術全般を担当。「変身ブーム」を支える。
1973年(昭和48年)、『仮面ライダーV3』(毎日放送)、『ロボット刑事』(フジテレビ)、『イナズマン』(NET)を担当。
1974年(昭和49年)、『イナズマンF』(NET)、『仮面ライダーX』(毎日放送)を担当。『仮面ライダーアマゾン』序盤を最後にエキスプロ、生田撮影所作品から離れる[1][2]。
1975年(昭和50年)、エキスプロを退社した三上陸男や藤崎幸雄らとともに造形会社「コスモプロダクション」を設立[3]。以降、三上とともに映画作品に多数参加[注釈 3]。
1978年(昭和53年)、東映京都の特撮映画『宇宙からのメッセージ』(深作欣二監督)、『宇宙からのメッセージ・銀河大戦』(NET)の美術を、三上とともに担当[2]。
1979年(昭和54年)、東映のテレビ番組『新・仮面ライダー』(毎日放送)で三上と組み、4年ぶりに復活した仮面ライダーの美術の前半部分を手掛ける[2]。しかし、怪人デザインは担当しなかった[2]。
映画では『その後の仁義なき戦い』(工藤栄一監督)などで、本編美術を手がける。工藤監督作品では他に1982年(昭和57年)の東映京都作品『野獣刑事』などがある。
1980年(昭和55年)、コスモプロが製作したテレビ特撮番組『Xボンバー』(フジテレビ系)に参加[2]。キャラクターデザインから美術全般、絵コンテ作成、ドラマ部分の演出など、八面六臂の活躍を見せた[1]。高橋が三上と組んで行なった精巧なミニチュア特撮とキャラクター造形は、英国他海外でも高い評価を受けている[5]。
1983年(昭和58年)、松竹・角川春樹事務所作品『蒲田行進曲』、東映京都作品で『里見八犬伝』と、深作欣二監督作品で本編美術を担当。『蒲田行進曲』で、「第37回毎日映画コンクール」の「美術賞」を受賞[2][6]。
1987年(昭和62年)、『はいからさんが通る』(佐藤雅道監督)、1988年(昭和63年)、『菩提樹 リンデンバウム』(山口和彦監督)を担当。
1995年(平成7年)、『犯人に願いを』(細野辰興監督) を担当。
その他、映画やドラマの本編美術を中心に活躍している[3]。