湯浅憲明

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 (1933-09-28) 1933年9月28日
没年月日 (2004-06-14) 2004年6月14日(70歳没)
ゆあさ のりあき
湯浅 憲明
湯浅 憲明
キネマ旬報社『キネマ旬報』第431号(1967)より
生年月日 (1933-09-28) 1933年9月28日
没年月日 (2004-06-14) 2004年6月14日(70歳没)
出生地 東京府東京市世田谷区赤堤
職業 映画監督
著名な家族 星ひかる(父)
主な作品
テンプレートを表示

湯浅 憲明(ゆあさ のりあき[1]1933年昭和8年〉[1]9月28日 - 2004年平成16年〉[1]6月14日)は、映画監督やテレビ番組の監督やディレクター。

特撮映画『ガメラシリーズ』のうち昭和期の作品をすべて手がけており[1]、「ガメラの父」としても知られる[2][注釈 1]

東京都[1]世田谷区赤堤に生まれる。実母は憲明を出産した当時は未成年であったため、息子を養子に出すことを望まなかった父・星ひかるによって私生児扱いにされており、就職のために戸籍謄本を取得した際に初めてそのことを知ったという[注釈 2]

恰幅がよく丸顔でもあり、『大怪獣ガメラ』の撮影時に島耕二からは「ガメラはぬいぐるみじゃなくて、湯浅監督がそのまま演じればいいんだよ」と冷やかされ[4]、回顧録でもガメラに演技をつける湯浅は「まるで兄弟のようだ」と表現されている[3]

演劇一家に育ったため、湯浅自身も幼少期は子役として芸能界にデビューしており、父の影響で湯浅も役者になることを期待されていた[3]

一方で、親族も含めて醜聞(異性問題)の多い環境で育ったことに苦悩し[注釈 3]、湯浅自身が俳優業への志を持ったことはなかった。助監督になってからもこの問題のために一度は退職を決心したり[注釈 4]、恋愛を題材にした作品を監督することはなかった[3][4]。また、父の芸能活動に支障をきたすことへの憂慮[注釈 5]や父の意見[注釈 7]も湯浅が意識して異性関係を自制する理由になった[3][4]

学生時代は吹奏楽部に所属していた。「ガメラシリーズ」の音楽面では基本的には菊池俊輔らに一任していたが、湯浅自身も独学でトロンボーンを習得して参加していたとされる[4]。この経験は『ガメラマーチ』の制作にも影響を与えた。

平成になって復活した「ガメラシリーズ(平成3部作)」に対しては、オリジナルシリーズの要素を排除した内容に触れ「あれではガメラ映画じゃないよね」と批判している。また、俳優・漫画家の破李拳竜は「(平成三部作のガメラ像に関して)ガメラのキャラクター性への拘りを持っていたのは高橋二三だが、湯浅自身もゴジラとの方向性の違いを特に重視していた」事を述べている[5]

ガメラと子供の関係性について、湯浅は自身の子供の頃の第二次世界大戦の体験について言及しており、ナショナリズムプロパガンダを用いて子供をコントロールしようとする大人を見てきたことが自身のトラウマであったとしており[注釈 8]、「子供が信頼して頼れる存在」としてガメラを描写したとしている[4]。また、ガメラシリーズの製作には職人気質を発揮しており、大映の経営状況を反映してガメラ作品を「良い映画ではなくヒットする映画」にするように心がけて子供向けの要素を強めていった[3]

湯浅自身は、ガメラシリーズを手がけるまで怪獣映画を好んでいたわけではなく、観ても文句ばかり言っていたが、自身でやってみてその苦労に気づいたと述べている[1]。湯浅は1954年の『ゴジラ』については、戦争の影響が残っているのが同作品の約10年後に造られたガメラシリーズとの違いであると評している[1]。しかし、制作陣の従軍経験ゆえの方向性という背景に理解を示していたものの、犠牲者の描写を好まず、戦争被害を正確に描いていないなどの理由から明確に批判的であった[4]

共に「ガメラシリーズ」を支えた高橋二三とは非常に仲が良かったが、大映の倒産と『ガメラ 大怪獣空中決戦』の制作を巡る高橋と徳間書店の間に発生した軋轢によって高橋が旧大映の関係者との連絡の一切を絶った余波で疎遠になってしまったという。なお、『幸せなら手をたたこう』も、当初は別の脚本家が担当していたが、大映の幹部からの評価が芳しくなかったために高橋が脚本を修正していた[4]

家族

経歴

ガメラシリーズ以前

子役時代には「かもしか座」という児童劇団に所属し、従兄弟の片山明彦杉義一倉田マユミ小柴完二杉狂児の娘の三杉貞子、中田博久池広一夫などとの共演や交流を経験しており、中田博久は後年にも『キャプテンウルトラ』を筆頭とするいくつかの湯浅作品に出演するなどの長年の友人であり続けた[3]

帝国劇場での野口英世に関する劇を皮切りに、佐伯英正による原作を叔父の島耕二が監督で映画化した『出征前十二時間』、『前線へ送る夕』などの戦意高揚用のNHK系の放送劇などに出演していた他、出演作ではあるが戦争の影響で公演が中止になった作品として『フクちゃん南方へ行く』がある[3]。また、島耕二の作品である『宇宙人東京に現わる』にもエキストラとして出演している[7]

第二次世界大戦の戦火を避けるために京都疎開し、京都府立鴨沂高等学校[注釈 6]を経て法政大学法学部法律学科を卒業する。同じく大映に所属していた俳優の田宮二郎は、鴨沂高校の2年後輩であった。

1954年(昭和29年)、大学在学中に大映に入社し、1957年(昭和32年)に、大映東京撮影所監督室に所属。衣笠貞之助井上梅次川島雄三清水宏[8]・叔父の島耕二らに師事。1964年(昭和39年)、歌謡青春映画『幸せなら手をたたこう』で監督デビューした[1]。助監督を7年経てからの監督への抜擢は、大映の最速記録だったという[3]。なお、清水の弟子時代の同門には関沢新一がいた[8]

ガメラシリーズ時代

東宝の「ゴジラシリーズ」が人気を博す中で、大映も自身の看板怪獣キャラクターを模索していた。永田雅一によって主導された「六社協定」の影響で大映自身も東宝の特撮技術が使えない状況にあり、「ガメラシリーズ」の前身の企画である『大海魔ダゴラ』と『大群獣ネズラ』は「生きた動物」を使用したことで失敗して様々な騒動の原因になった。『大群獣ネズラ』には湯浅も編集作業に携わったが、予告編編集のためフィルムを見せてほしいと特撮監督の築地米三郎に頼んでも門外不出だからと断られたという[1]。なお、ネズラの造形物をガメラ作品で使うように何度も要請されていたが湯浅は断っている[4]

1965年(昭和40年)にシリーズ第一作目である『大怪獣ガメラ』を監督した。本作は「たらい回しの末に湯浅に放り投げられた」とされており、中には「(ガメラが)湯浅自身のキャリアも台無しにするだろう」という声もあった[4]。湯浅が抜擢された背景としては、当時の社員監督で最年少であったこと、『幸せなら手をたたこう』が興行的に失敗してテレビ部門に配属された湯浅が挽回の機会を欲していたこと[注釈 9]、他の関係者が(彼らのキャリアに傷がつくことなどの不安もあって)「ガメラ」をやりたがらなかったこと[6][1]などが関係している。また、本作の後も湯浅が継続的に特撮に関わり続けなければならなかった原因として、的場徹円谷プロダクションへの移籍や築地米三郎などのベテラン社員の退社なども重なった他にも、当時の社員監督に求められていた業務の一つとして新人女優のプロモーションがあり、本郷功次郎を筆頭に大映出身の俳優や新人女優のキャリアにとって怪獣映画の有効性が期待されていたという事情もあった[9]。大映の経済状況だけでなく、特撮のスタッフの欠員も当時の大映が東宝と異なって特撮作品を量産できない原因にもなった[4]

『大怪獣ガメラ』への期待度は大映の社内でも低かったが、永田雅一が周囲の反応と異なって本作を評価し[注釈 10]、実際に本作は予想外の成功を収めた。以来、湯浅は本シリーズを続けて担当し、高橋二三とのタッグによって子どもが純粋に楽しめる怪獣映画として人気シリーズに育て上げた。湯浅と高橋による継続的なコンビ体制は当時の大映としては異例であり、たとえば『大魔神』や『座頭市』、『眠狂四郎』などの他の作品群は複数の監督がローテーションで担当していた[9]。「ガメラシリーズ」によって大映は一時的に持ち直し、実質的に「ガメラシリーズ」が単独で大映や各下請けスタジオを1971年の大映の倒産まで支えていた[3]

第2作『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』(1966年)ではちゃんとした人間ドラマを入れたが、劇場で子供たちは怪獣が出てくるまで見ていなかったことから子供向けにシフトした[1]。続く『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)以降は、ガメラと敵怪獣との戦いを4ラウンド設けるなど、子供向けのサービス精神を徹底した[1]。ゴジラシリーズと同じことをしてもヒットはしないとの考えから差別化を図り、ガメラをなるべく這わせたり、流血描写を盛り込んだりするなど、ガメラの動物としての面も強調していた[1]

昭和のガメラシリーズの最終作であった『ガメラ対深海怪獣ジグラ』は昭和のシリーズ作品でもとくにストーリー上の展開や整合性の欠落が目立つが、これは会社の倒産が間近に迫る中での制作環境の混乱がより悪化したことが関係しており、湯浅自身も社員監督から契約監督に変更されて残業代が支払われなかった[10]

大映時代に、TBSから特撮テレビドラマ『ウルトラQ』のような番組を打診されたこともあった[1]。スタッフには「湯浅プロ」の設立を意気込む者もいたが、TBSが依頼した理由は円谷プロでは製作費が高いからというものであり、湯浅は「特撮は儲からないのでやらなくてよかった」と述懐している[1]

また、湯浅と脚本家の佐々木守大魔神のテレビシリーズ化計画に参加する予定だった[3][11]。湯浅と佐々木の企画と同一か否かは不明瞭だが、実現できなかった大魔神のテレビシリーズ化の試みとしては、大魔神をベースにした変身ヒーロー企画の『魔人斑鳩』も存在している[12]

大映の倒産後

「ガメラシリーズ」は当時の特撮界全体にも大きな影響を与え[13]、本シリーズが末期の大映を実質的に単独で支えていたとされている[3]

1971年(昭和46年)、湯浅は大映倒産の報を聞いた後に1人で倉庫に篭り、余りの悔しさのために昭和ガメラと他の怪獣の着ぐるみなども含め、周囲にある物を残さず全て叩き壊してしまったという[14]。ただし、これには異説もあり、倒産時に「ガメラシリーズ」の資料が破壊されたのは湯浅の所業ではなく、倒産時に発生したスタッフや従業員の暴動が原因だともされている[6][15]。そして、大映倒産後の『宇宙怪獣ガメラ』は新規の撮影シーンが非常に少なく、ほとんどを過去作のストック・フッテージに依存している。同年、大映を退社[1]

『ガメラ対深海怪獣ジグラ』の次に予定されていたガメラ作品は未制作に終わったが、1991年に湯浅と高橋の協力の下で『幻の次回作:ガメラ対ガラシャープ』として簡易的にアイディアが再利用された[4][16]

大映倒産に伴ってテレビドラマ界に転出したが、これによって湯浅は当時のテレビ業界の最大のヒットメーカーの一角とも評される程にキャリアを形成した[3]。「岡崎友紀18歳シリーズ[1]」『アイちゃんが行く!』などの青春コメディや、『アイアンキング』・『電人ザボーガー』・円谷プロダクション系作品(『ウルトラマン80[1]・『アニメちゃん』・『コメットさん』)などの児童向けの特撮作品も演出しており、本人も「特撮物は大好きですから」と語っている[要出典]

晩年はカラオケ映像の演出などを手がけて活躍しており、後述の『コスプレ戦士キューティ・ナイト2 帝国屋の逆襲』を遺作とする[17]

2004年6月14日、脳溢血のため70歳で他界。訃報は「映画監督協会」の月報に掲載された。大映の関係者もほとんど把握しておらず、湯浅の回想録に携わった唐沢俊一開田裕治も伝聞で知った。唐沢が湯浅夫人に連絡をした際に、生前「俺はフェイド・アウトでいなくなるから誰にも報せるな」と遺していたため、関係者も湯浅の訃報を後から知ったとされている[3]

湯浅をモデルとしたキャラクター

湯浅の同期で大映の美術課長でガメラ作品にも関与した川村清が、大映の倒産直後に築地米三郎をモデルにした小説『ゴメラの笛』を書いており、この小説には湯浅をモデルにした「星野」というキャラクターが登場しているが、名前の由来は湯浅の実父の星ひかるだとされる[3][18]。また、『ネズラ1964』にも湯浅をモデルとしたキャラクターの「ユカワ」が登場している[19]

1996年の『コスプレ戦士キューティ・ナイト2 帝国屋の逆襲』は遺作であり、同作を監督しただけでなく「湯浅博士」というキャラクターとして登場した。また、(月刊マンガボーイズにて『大怪獣ガメラ』に携わった)破李拳竜が演じる「カプセル怪獣・ガメラ」への演技指導も行った[17]

代表作

映画

テレビドラマ

テレビ出演

宇宙怪獣ガメラ』製作時に出演。同作の演出風景も流された。

その他

関連書籍

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI