白雉4年(653年)、遣唐第2船の大使として、計120名を率いて、唐に派遣された。このときの位は大山下であった[1]。
ところが、同年7月、
大唐
(もろこし)に遣さるる使人
(つかひ)高田根麻呂
(たかた の ねまろ)等
(ら)、
薩麻(さつま)の曲
(くま)・
竹嶋(たけしま)の間
(あひだ)に、船
(ふね)合
(こぞ)りて没死
(おち)りぬ。
とあり、出航からひと月半で、船の衝突により遭難死した。この時、ただ5人だけが胸を一板にかけて、竹嶋へ流れ着いた、という。そこから更に竹で筏を組み、神嶋(しときしま、今の甑島列島の上甑島)へ辿りついた。この5人は6日6夜、何も食べなかったという[3]。
遣唐使派遣初期の悲劇であった。この時、何らかの事情で南島路をとっていたことが分かる。