藤原兼房 (太政大臣)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿
From Wikipedia, the free encyclopedia
藤原 兼房(ふじわら の かねふさ、仁平3年〈1153年〉 - 建保5年2月8日〈1217年3月16日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家御堂流、関白・藤原忠通の十男。官位は従一位・太政大臣。
経歴
仁平3年(1153年)、関白・藤原忠通の十男として誕生。応保2年(1162年)に10歳で元服し、従五位上、次いで正五位下に叙され、さらに禁色を許され侍従となった。長寛元年(1163年)に左少将、長寛2年(1164年)には左中将となり、仁安元年(1166年)に14歳で従三位に叙され公卿に列した。しかし同母兄・九条兼実が「無才漢、無労積」(『玉葉』建久2年3月28日条)と語るように才覚や見識には乏しく、永らく議政官になれず非参議左中将に留まった。寿永2年(1183年)4月には、位階も年齢も下だった藤原頼実が権中納言に任じられることになり、兼実を落胆させている(『玉葉』寿永2年4月3日条)。同年8月に兼房も権中納言に昇進するが、11月の法住寺合戦では院御所に参入していたため戦闘に巻き込まれ、一時は消息不明となった。これを聞いた兼実は「日來却籠居之人、何故今日被院參哉、尾籠之甚、可謂嗚呼々々也、定爲天下之沙汰歟」と嘆息している(『玉葉』寿永2年11月19日条)。
その後は、元暦2年(1185年)に権大納言となって兼実の嫡子・良通の官位に追いつき、文治5年(1189年)には正官の大納言となるなど、兼実の支援もあり順調に昇進する。建久元年(1190年)、左大臣・徳大寺実定の辞任を受け後任人事が焦点となり、花山院兼雅は叔父の中山忠親を内大臣にするよう後白河法皇に願い出る。これに対して兼実は、大納言序列二位の忠親が序列一位の兼房を超えることに反対した(『玉葉』建久元年4月18日条)。この時は兼実の意見が通り、7月17日、兼房は内大臣に昇進した。ところがそれから一年も立たない建久2年(1191年)3月、後白河院は兼実に対し、兼房を太政大臣に昇進させて空いた内大臣に忠親を任じるよう命じた(『玉葉』建久2年3月10日条)。兼実は「太相近代大略弃置之官也」として内心不満だったが、この人事案を受諾した。これにより兼房は朝議を主催する一上への道を閉ざされることになった。その後、太政大臣に5年間在任したが、建久7年(1196年)11月28日、建久七年の政変で兼実が失脚した煽りを受けて辞任する。正治元年(1199年)に47歳で出家、建保5年(1217年)に薨御。享年65。
和歌を愛好し柿本人麻呂を尊敬していたという。藤原定家の『明月記』には、「出仕之時、雖無有職之譽、在世之間無追從貪侫之心、遁世之後有持律淨戒之聞、於末世者可謂賢者、未滿四十、太政大臣官途又何恨者乎、後聞、正念無違、高聲念佛、異香薫室云々」と記されている。
官歴
『公卿補任』による
- 応保2年(1162年) 2月21日:叙爵(従五位上)。2月25日:正五位下(中宮入内賞立后給)。4月7日:侍従
- 応保3年(1163年) 正月24日:右近衛少将(剰闕)
- 長寛2年(1164年) 正月5日:従四位下。正月21日:中宮権亮、近江介、転左近衛中将
- 永万元年(1165年) 7月25日:従四位上。12月30日:正四位下
- 仁安元年(1166年) 正月12日:従三位(臨時、左中将如元、元中宮権亮)
- 仁安2年(1167年) 正月20日:正三位(東宮行啓賞)。正月30日:播磨権守
- 承安2年(1172年) 正月23日:備中権守
- 承安4年(1174年) 正月21日:従二位
- 治承3年(1179年) 正月19日:正二位
- 寿永2年(1183年) 8月25日:権中納言(元左中将)
- 文治元年(1185年) 正月20日:権大納言
- 文治5年(1189年) 7月10日:大納言
- 文治6年(1190年) 4月26日:中宮大夫(冊命)。7月17日:内大臣
- 建久2年(1191年) 3月28日:太政大臣
- 建久5年(1194年) 正月6日:従一位
- 建久7年(1196年) 11月28日:辞太政大臣
- 正治元年(1199年) 6月18日:出家(法名定真)
- 建保5年(1217年) 2月26日:入滅(享年65)