藤原育子
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| 藤原 育子 | |
|---|---|
第78代天皇后 | |
| 皇后(中宮) | 応保2年2月19日(1162年3月6日) |
| 皇后(皇后宮) | 承安2年2月10日(1172年3月6日) |
| 誕生 | 久安2年(1146年) |
| 崩御 |
承安3年8月15日(1173年9月23日)[1] |
| 諱 | 育子(むねこ/やすこ/いくし) |
| 旧名 | 香子 |
| 氏族 | 藤原氏 |
| 父親 | 徳大寺実能/藤原忠通(養・近衛基実) |
| 母親 | 源俊子(源顕俊の娘) |
| 配偶者 | 二条天皇 |
| 入内 | 応保元年12月17日(1162年1月4日) |
| 養子女 | 六条天皇 |
| 女御宣下 | 応保元年12月27日(1162年1月14日) |
| 立后前位階 | 従三位 |
藤原 育子(ふじわら の むねこ /やすこ[2] / いくし)は、平安時代末期の后妃。二条天皇の中宮、六条天皇の養母。
姓は藤原、初名は香子[3]。実父については、閑院流の徳大寺左大臣実能[4]と、摂関流の法性寺関白忠通[5]の二説がある。前者は育子を実能の実娘、忠通の養女、義兄基実の猶子とし、後者は忠通の乙姫君(皇嘉門院につぐ忠通の次女)として異母兄基実の猶子になったとする。史料性としては、前者が室町期の作成であることに対し、後者の方はほぼ同時代人による記録で、ことに愚管抄の作者である慈円(忠通息)は育子の身内であった。以下、育子は忠通の実子、という推定のもとで記述する。