龍敏

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龍 敏(りゅう びん、886年 - 948年)は、五代十国時代官僚は欲訥。本貫幽州永清県[1][2]

経歴

若くして儒学を学び、郷里に仕えて参軍となった。劉守光が乱を起こしたため、龍敏は滄州に避難した。戴思遠黄河を渡って南方に向かうと、龍敏はこれに従った。同郷の周知裕後梁に仕えて裨将となっていたため、龍敏は赴いてかれを頼った。周知裕はたびたび龍敏を推薦したが任用されず、龍敏は開封府で物乞いをして年を重ねた。晋王李存勗が魏博を平定すると、龍敏は旧友の馮道が覇府記室となったと聞いて、龍敏は河中節度使の朱友謙の客となり、一カ年後に李存勗に帰順した。馮道の家に滞在し、河東監軍使の張承業に任用されて河東節度巡官となり、監軍奏記をつかさどった[1][3]

同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が洛陽を平定すると、龍敏は召し出されて司門員外郎となった。貧しい家族を養うため、興唐少尹の任を求めて赴任した。同光2年(924年)、母が死去すると、興唐府の城下に隠居して喪に服した。同光4年(926年)、趙在礼鄴都に拠ると、龍敏は同郷の人間として、強制的に事務に起用された。反乱軍に迫られたため、龍敏は拒むことができなかった。天成元年(同年)12月、趙在礼が滄州に移転すると、龍敏は再び服喪の生活に戻った。喪が明けると、龍敏は戸部郎中に任じられた。のちに諫議大夫御史中丞に転じた。ときに龍敏の父の龍咸式は70歳で、龍咸式の父は年90あまりであり、龍敏は父と祖父を養って、朝夕に怠ることがなかった。龍敏は幽州への使節をつとめ、郷里の故老たちと宴を張って歓を尽くした。長興元年(930年)、馮贇が北都留守となると、龍敏は北都副留守とされた[1][4]応順元年(934年)、兵部侍郎となった[5]清泰元年(同年)、龍敏は吏部侍郎に任じられた[6]

清泰3年(936年)、石敬瑭太原府で起兵し、契丹の援軍を求めた。龍敏は末帝李従珂懐州に赴くのに従った。趙徳鈞趙延寿父子が反乱を計画し、晋安寨が陥落しそうになったので、末帝は従臣に対応策を諮問した。龍敏は東丹王李賛華に援兵を送って幽州を取らせれば、契丹の太宗は北方に引き返すだろうと進言した。末帝は龍敏の発言の理を認めたが、採用することはできなかった。龍敏はまた末帝の親軍の将である李懿に壮語を吐いてかれを鼓舞した。末帝は龍敏を任用するのが遅かったと嘆いた[7][4]

後晋天福2年(937年)、龍敏は吏部侍郎のまま判戸部事をつとめた[8]。天福4年(939年)、尚書左丞に転じた[9]。父が死去すると、龍敏は辞職して喪に服した[7]開運元年(944年)、喪が明けると、尚書左丞に復帰した。開運2年(945年)、太常寺卿に転じた[10]呉越への使節をつとめた[7][4]。開運3年(946年)、帰国すると、工部尚書に転じた[11]

後漢乾祐元年(948年)2月10日、背中に腫瘍ができて、家で死去した。享年は63。隠帝劉承祐が即位すると、龍敏は尚書右僕射の位を追贈された[12][4]

脚注

伝記資料

参考文献

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