アケイティーズ (駆逐艦・2代)
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| HMS アケイティーズ | |
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| 基本情報 | |
| 建造所 | ジョン・ブラウン・アンド・カンパニー・クライドバンク造船所 |
| 運用者 |
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| 艦種 | 駆逐艦 |
| 級名 | A級駆逐艦 (2代) |
| モットー |
ラテン語: Fidus Achates 英語: Faithful Achates (忠実なるアケイティーズ)[1] |
| 艦歴 | |
| 発注 | 1928年3月6日 |
| 起工 | 1928年9月11日 |
| 進水 | 1929年10月4日 |
| 就役 | 1930年3月27日 |
| 最期 | 1942年12月31日にバレンツ海海戦にて戦没 |
| 要目 | |
| 排水量 | 1,350 トン |
| 全長 | 323 ft (98 m) |
| 最大幅 | 32 ft 3 in (9.83 m) |
| 吃水 | 12 ft 3 in (3.73 m) |
| 主缶 | 海軍本部式三胴型重油専焼缶×2基 |
| 主機 | ギヤード蒸気タービン×2基 |
| 出力 | 34,000 shp |
| 推進 | 2軸推進 |
| 最大速力 | 35ノット (65 km/h; 40 mph) |
| 乗員 |
134名 140名(1940年) |
| 兵装 |
45口径4.7インチ単装砲×4基 ヴィカース 2ポンド単装ポンポン砲×2基 533mm四連装魚雷発射管×2基 爆雷投射機×6基 爆雷投下軌条×3基 |
アケイティーズ (HMS Achates, H12) とは、イギリス海軍の駆逐艦。A級駆逐艦 (2代)。艦名は、ギリシャ・ローマ神話において英雄アイネイアースの忠実な部下とされるアカーテースに由来し、イギリス海軍においてこの名を持つ艦としては5代目[2]。
第二次世界大戦中の1942年12月31日、バレンツ海海戦でドイツ重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」の攻撃によって大破、撃沈された。
ノルウェー戦役における経験の結果、イギリス海軍は対空能力強化のため、駆逐艦に高角砲を追加するプログラムを開始した[3]。A級は後部の魚雷発射管1基を12ポンド(3インチ(76mm))単装高角砲1基に置き換え、1940年10月までには全てのA級が改造された。しかし、これら高角砲は方位盤による管制がなかったため、実用性は限られていた。第二次世界大戦初期には、35発の爆雷が搭載されていたが、1941年4月までに42発へ増加し、1回5発のパターンで投下できるようになった[4]。1941年後半、爆雷搭載量を増やすためY砲(最後方の4.7インチ砲)が取り外され、追加の爆雷投射器と投下軌条が取り付けられた。爆雷搭載量が60発へ増えたため、10発の投下パターンを実施できるようになり、A砲(最前方の4.7インチ砲)はヘッジホッグ対潜迫撃砲に置き換えられた[5][4]。
艦歴
「アケイティーズ」は1928年3月6日に発注され、1928年9月11日にジョン・ブラウン・アンド・カンパニーのクライドバンク造船所で起工、1929年10月4日に進水し、1930年3月27日に竣工した[6]。
戦間期の活動
就役後、「アケイティーズ」は地中海艦隊第3駆逐艦戦隊に加わった[7]。
1931年初頭、航空母艦「イーグル」に帯同してアルゼンチンのブエノスアイレスを訪問した「アケイティーズ」は大英帝国貿易博覧会を支援し、さらにウルグアイのモンテビデオとブラジルのリオデジャネイロも訪問した[8][9]。1931年10月に英領キプロスで発生した暴動により、イギリス海軍は軍艦を派遣することになり[10][11]、「アケイティーズ」、姉妹艦「アカスタ」、重巡洋艦「ロンドン」、「シュロップシャー」は10月22日にクレタ島からキプロスへ向かうよう命じられた[12]。
1932年4月4日、「アケイティーズ」と姉妹艦「アクティヴ」はサントロペ沖で衝突事故を起こし、「アクティヴ」はマルタで修理が必要となった。第3駆逐艦戦隊の所属艦は1932年夏にイギリス本国の造船所で改装され、「アケイティーズ」は1932年10月にデヴォンポートで改修を完了して地中海に戻ることになり[13][14]、1932年11月4日にジブラルタルへ向けて出発した。「アケイティーズ」を含む戦隊は、1935年4月22日に再び地中海を出発して母港に向かった[15]。「アケイティーズ」は7月23日にデヴォンポートで新たな乗員とともに再就役する。同月後半には地中海へ戻り、戦隊はマルタへ移る前にジブラルタルで1か月間訓練を受けることになっていた[16][17]。
1937年1月13日、「アケイティーズ」はドイツ船「パロス」に対するスペイン共和派の行動に対する報復として ドイツ海軍の装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」に拿捕されたスペイン汽船「アラゴン」の乗員を収容し、マラガに送還した[18]。
「アケイティーズ」は、第3駆逐艦戦隊でI級駆逐艦に置き換えられた残りのA級とともに1937年3月に英国へ戻り、デヴォンポートで解役された[7][19][20]。1937年10月、「アケイティーズ」は駆逐艦「ウールストン」に代わって、ポートランドに拠点を置く第1対潜戦隊の母艦となった[21]。1938年7月、「アケイティーズ」は第1対潜戦隊の母艦の座を「ウールストン」に譲り、デヴォンポートで緊急駆逐艦として「ウルヴァリン」を代替した[22]。1939年5月までに、「アケイティーズ」はポートランドに拠点を置く第6潜水艦戦隊に配属された[7][23]。
第二次世界大戦
1939年9月の第二次世界大戦勃発時、「アケイティーズ」はポーツマス管区の第18駆逐艦戦隊に加わり、英仏海峡で対潜哨戒と船団護衛任務を遂行した[7][1]。1940年7月にはハリッジを拠点とする第16駆逐艦戦隊に加わり、北海で哨戒と護衛任務を行った[7][1]。1940年8月2日、本国艦隊は駆逐艦戦隊を再編成し、「アケイティーズ」は第12駆逐艦戦隊に移された[24]。
1940年11月、「アケイティーズ」は第4護衛グループに加わる[7]。同年11月2日、ドイツ海軍潜水艦「U-31」は、OB237船団の護衛艦である駆逐艦「アンテロープ」への攻撃を試みたが、「アンテロープ」は「U-31」を探知して爆雷で攻撃し、「アケイティーズ」に対し警報を発した。爆雷の炸裂音で「アケイティーズ」のASDICは探知不能となったが、「アンテロープ」からの継続的な爆雷攻撃により「U-31」は深刻な損傷を受け、浮上後自沈した[25][26]。「アケイティーズ」は1940年12月30日時点で、まだ第4護衛グループに在籍していた[27]。翌1941年に本国艦隊第3駆逐艦戦隊に加わった[5][28][注釈 1]。
デンマーク海峡海戦
1941年5月22日の真夜中過ぎ、「アケイティーズ」は駆逐艦「エレクトラ」、「アンテロープ」、「アンソニー」、「エコー」、「イカルス」とともに、巡洋戦艦「フッド」と戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を護衛して出撃、ドイツ戦艦「ビスマルク」と重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」による大西洋への突破に対抗して、ノーザン・アプローチを防衛した[31][32]。その意図は、部隊がデンマーク海峡を監視し、重巡洋艦「ノーフォーク」と「サフォーク」を支援することだった[33]。
5月23日の夜、天候が悪化し始め、駆逐艦は「フッド」と「プリンス・オブ・ウェールズ」に追いつくのに苦労した[34]。5月24日午前2時3分、駆逐艦は主力艦2隻が南に旋回する間、北への捜索を続けるよう命じられた[35][34]。午前5時35分頃、ドイツ艦隊は「フッド」に発見され、しばらくしてドイツ側もイギリス艦を目撃した。発砲は午前5時52分に開始された[36][37]。そして午前6時ちょうど頃、「フッド」は大爆発に見舞われ、わずか3~4分で沈没した[38][39]。
「フッド」喪失後、「ノーフォーク」座乗のウェイク=ウォーカー提督は駆逐艦に生存者を捜索するよう命じ、2隻の重巡洋艦はドイツ艦の追跡を続けた。「フッド」が沈没してから約2時間後に、最初の駆逐艦「エレクトラ」が到着した。彼らは多くの生存者が見つかると予想し、スクランブルネットとヒービング・ラインを仕掛け、すぐに投げ込めるように甲板へライフベルトを設置したが、結局のところ生存者は3名しか見つからなかった。「エレクトラ」は彼らを救出し、なおも捜索を続けた。だが、それ以上生存者は見つからず、流木と残骸、書類で満たされた机の引き出しが発見されただけだった。数時間の捜索の後、彼らはその海域を去った[40][41]。
EF作戦・北極海・トーチ作戦
1941年7月23日、キルケネスとペツァモへの航空母艦艦上機による襲撃(EF作戦)に参加する任務部隊がアイスランド沖に集結していたとき、「アケイティーズ」はイギリスの機雷に接触して大破した。「A」砲を含む艦首部が吹き飛ばされ、乗員63名が死亡し、25名が負傷した[7][42]。
「アケイティーズ」は「アンソニー」によってセイジスフィヨルズルに曳航され、応急修理の後、8月7日に曳船「アシュアランス」の曳航下でアイスランドを出港したが、8月10日の嵐によりさらなる損傷が発生した。縦骨材が破損したほか、上甲板に亀裂が入り、フェロー諸島のスカグレフィヨルドに避難しなければならず、そこでさらに応急修理が行われた。最終的に、「アケイティーズ」は1941年8月24日にタイン川へ到着した[7][43]。
8か月間の修理を受けた「アケイティーズ」は再就役し、1942年5月23日に援ソ船団PQ 16船団に加わる。「アケイティーズ」は5月30日まで船団に留まり、船団は36隻の商船のうち7隻を失いながらもロシア海域に到着した[44] 。「アケイティーズ」は6月26日にアルハンゲリスクを出発した復行船団QP13船団の一部としてイギリスに戻ることになり、1942年7月7日まで船団に加わった[45]。「アケイティーズ」はPQ18船団の護衛として同年9月7日に合流し、船団が9月21日にアルハンゲリスクに到着するまで同隊に留まった。13隻の商船がドイツのUボートと空襲によって沈没した一方、船団の護衛艦は潜水艦3隻を沈めた[46]。
1942年11月、「アケイティーズ」は米英軍によるフランス領北アフリカ侵攻(トーチ作戦)に参加した[7]。「アケイティーズ」は上陸船団の一部を形成し、その後、アルジェリアのオラン上陸中に空母を護衛するために分離された。
11月8日、オラン沖に配置されていた「アケイティーズ」は、 連合軍の上陸に対抗するために出撃したヴィシー・フランス海軍潜水艦を発見し、攻撃した。「アケイティーズ」による対潜攻撃後、海面への重油の流出と巨大な気泡、潜水艦の内外からの破片が見られた[47]。同日、オラン沖では「アケイティーズ」と駆逐艦「ウェストコット」の攻撃によって、「アルゴノート」と「アクテオン」の2隻の仏潜水艦が沈められた[48][注釈 2]。
バレンツ海海戦
1942年12月25日、「アケイティーズ」はユー湖からムルマンスクに向かうJW51B船団の戦闘駆逐艦護衛隊に加わった[51]。12月31日、船団はバレンツ海海戦でドイツ海軍重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」と「リュッツォウ」、そして6隻の大型駆逐艦による攻撃を受けた[52]。ドイツ軍の計画は、攻撃兵力を分けて「ヒッパー」と駆逐艦3隻が北西から護衛艦を攻撃して撤離させ、「リュッツォウ」が妨害を受けることなく南から輸送船団を攻撃できるようにすることだった[53]。
ドイツ軍の攻撃が午前9時15分頃に始まったとき、「アケイティーズ」は定められた命令に従い、護衛のより近代的な駆逐艦が敵軍を迎撃する間、船団を攻撃部隊から隠すために煙幕を展開する態勢を整えた。「アケイティーズ」は、戦闘序盤に「ヒッパー」からの至近弾で損傷を受け、砲弾の破片が浸水を引き起こしたが、なおも煙幕を吐き続けた[54][55]。
午前11時15分、「アケイティーズ」は攻撃を受けてひどく損傷した戦闘駆逐艦護衛隊旗艦「オンズロー」に加わるよう命じられたが、自らの煙幕から抜け出したところを「ヒッパー」に発見され、激しい攻撃を受ける。「アケイティーズ」の艦長A・H・T・ジョンズ少佐を含む40名が戦死し、浸水が増加した[56]。「アケイティーズ」の指揮は副長であるロフタス・ペイトン=ジョーンズ大尉が引き継いだ。大破していたにもかかわらず、「アケイティーズ」はなおも船団を守るために煙幕を展開し続けたが、浸水と傾斜は徐々に増加した。午後1時00頃、停電し、「アケイティーズ」はトローラー「ノーザン・ジェム」に救援を求める信号を送った。しかし、午後1時30分に「ノーザン・ジェム」が接近したところ、「アケイティーズ」は北緯73度18分 東経30度06分 / 北緯73.300度 東経30.100度地点で突然転覆・沈没した[57][58]。「ノーザン・ジェム」は「アケイティーズ」の生存者81名を救助したが、うち1名は後に船上で死亡した。「アケイティーズ」艦長ジョンズ少佐以下113名が戦死した[59][60]。
「アケイティーズ」沈没後も、護衛艦艇は有力なドイツ艦からの砲撃で劣勢に立たされていたにもかかわらず、後にヴィクトリア十字章を授与されることとなる「オンズロー」座乗のロバート・セント・ヴィンセント・シャーブルック大佐指揮の下、軽巡洋艦「シェフィールド」と「ジャマイカ」が救援に駆け付けるまで攻撃を阻止し続けた。「シェフィールド」が「ヒッパー」に損傷を与え、駆逐艦「Z16フリードリヒ・エッコルト」を撃沈したことで、ドイツ艦隊は攻撃を中断する。結果として、この海戦における商船の被害はなかった[51]。
「アケイティーズ」副長ペイトン=ジョーンズ大尉は、この戦闘における活動に対してコンスピキュアス・ギャラントリー・メダルを授与されたほか、乗員には殊功十字章1個、殊勲章 7個が授与された。また、16名が殊勲報告書で言及された(艦長ジョンズ少佐を含む11名は死後追贈)[61]。艦としての「アケイティーズ」は戦闘名誉章「BARENTS SEA 1942」を受章した[1]。
栄典
「アケイティーズ」は生涯で5個の戦闘名誉章(Battle honours)を受章した[1]。
- 「ATLANTIC 1940-42」
- 「BISMARCK 1941」
- 「NORTH AFRICA 1942」
- 「ARCTIC 1942」
- 「BARENTS SEA 1942」