アフリカの軍事史

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エチオピアとイタリアが戦った「アドワの戦い」のタペストリー

アフリカの軍事史(アフリカのぐんじし)は世界でも最も古い軍事史の一つである。 アフリカ大陸では多くの地域で異なった言語 (総数は数百種類に及ぶ) が話されており、文化、宗教の慣習も異なっている。これらの相違もまた数千年の大半の紛争の原因となっている。

アフリカ史のように大陸の軍事史も地域ごとに異なっていることが多い。例えば北アフリカ地中海文化の一部であり、古典古代の軍事史にとって不可欠な地域であった。現代アフリカの軍事史は植民地前、植民地時代、植民地後と幅広い3期間に分けられる。

古代エジプトとヌビアの軍事史

紀元前3100年、 上エジプト下エジプトメネスによって統一された。その後古代エジプトエジプト古王国時代の終焉により不安定な時代に突入 (エジプト第1中間期) し、メンチュヘテプ2世が紀元前2055年にエジプト中王国を始め地位を固めるまで安定することはなかった。エジプト中王国時代もチャリオットを導入したヒクソスの侵攻によって終了する。この新しい技術はすぐにエジプト人によって採用され、紀元前16世紀のエジプト新王国エジプト新王国の黎明期で侵略者を追い出すことに成功した。

再興したエジプトは北と東をユーラシアに拡大してエーゲ海とレバントの多くに行き、ユーフラテス川まで広がった。エジプトはまた西をリビア、南をスーダンまで拡大した。

エジプト第20王朝が徐々に崩壊していったことで、ナパタを首都とするヌビアのクシュ王国の建国が可能になった。クシュはエジプトを征服しエジプト第25王朝を建国したピイの統治下で最盛期を迎えたが、その後のアッシリアの侵攻とその後のエジプト第26王朝の王の抵抗によってクシュ人は次第にナパタに押し戻されていった。

最新の戦争はエジプトとイスラエル間の争いで、第四次中東戦争として知られているこの戦争により、エジプトとイスラエル間でDMZ (Auja DMZ) が成立したためイスラエルの次の戦争においてはエジプトは重要な存在となった。

古代アクスムの軍事史

アクスム王国は世界で最強の軍隊の一つを保有しており、ローマや他の世界の勢力と比較された。帝国は今日のイエメン西部、ジブチ、サウジアラビア南西部、スーダン東部、エリトリアの大半及び現代のエチオピアの北部と中央部の広大な地域を統治した。

現代アフリカの軍事史

アダル・エチオピア戦争

植民地のドイツ保護領カメルーンのエボロワの軍事会社 (1894/1915)

ヨーロッパの探索はポルトガルが西海岸の地図作成をすることから始まった一方で、大規模介入はかなり後まで起きなかった。1529-1543年のアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーによる戦役でキリスト教国のアビシニア (現代のエチオピア) の4分の3をムスリムアダル・スルタン国 (現代のソマリア) の勢力下に置いた[1][2]。アフマドの軍隊は主にソマリ族で構成されており[3]オスマン帝国のマスケット銃士と兵士を伴っていた。しかし、ワイナ・ダガ (Wayna Daga) の戦いで、エチオピア・ポルトガル連合軍 (ポルトガルのマスケット銃士を含む) は先の戦いで敗北し殺された元ポルトガル司令官クリストヴァン・ダ・ガマの復讐でアフマドの殺害に成功し、アダルの領土を奪還した。

1579年にオスマン帝国はエチオピアへの再攻撃を試みており、今回はマッサワの沿岸基地の北部からであったが、エチオピア軍によって敗北した。1652年にはポルトガルの勢力の衰退に伴い、オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベック率いる三隻の小型船の艦隊を派遣し、南アフリカのテーブル湾に最初の恒久的な植民地を設立し、北方への拡大を始めた。1868年にエチオピアとエジプトはGuraで戦争に突入し、ヨハンネス4世が率いるエチオピアがエジプトを決定的に破った。

アジュラン・ポルトガル戦争

オスマン帝国はインド洋でポルトガルと戦うアジュランを援助した
バラワの戦いでトリスタン・ダ・クーニャは負傷し、アフォンソ・デ・アルブケルケに騎士になることを求められた[4]

ヨーロッパの大航海時代はヨーロッパの後の超大国となるポルトガル海上帝国を当時外国との貿易の繁栄を謳歌していた東アフリカの沿岸にもたらした。裕福な東南の都市国家のキルワモンバサマリンディ、Pate及びラムはポルトガルによって全て組織的に占領・略奪された。トリスタン・ダ・クーニャはその後アジュラン地域に目を付け、バラワの戦いが起きた。長期にわたる交戦の後、ポルトガル兵は都市を焼き払い略奪した。しかし地元人と兵士による激しい抵抗によりポルトガルは都市の恒久的占領に失敗し、内陸に逃げていた住民は最終的には戻って都市を再建した。バラワの後、トリスタンは東アフリカの沿岸で最も豊かな都市モガディシュへ出航したが、バラワで起きたことについての話が広まっており、大規模な軍隊が動員されていた。多数の騎兵、兵士及び戦艦が防衛拠点につき都市を守っていたにもかかわらず、トリスタンは未だに突撃し都市を征服すると決めたが、戦闘で敵と交戦すれば確実に敗北することを恐れた全ての士官と兵士が反対した。トリスタンは忠告を聞き入れ、代わりにソコトラ島へ出航した[5]。戦いの後バラワの都市はすぐに攻撃から復旧した[6]

1660年モンバサのポルトガル海上帝国はソマリ族とオマーンの連合軍に降伏した[7]

次の数十年間にわたり、ソマリアとポルトガル間の緊張は高まったままであり、ソマリアの船員とオスマン帝国の私掠船との接触の増加はポルトガルを悩ませ、モガディシュに対しJoão de Sepúlveda指揮下の懲罰遠征隊を送ったが成功しなかった[8]。インド洋でのポルトガルに対するオスマン帝国とソマリアの協力は1580年代に頂点に達し、ソマリアの沿岸都市のアジュランの顧客はポルトガル統治下のアラブ人とスワヒリ人に対して哀れみを覚えはじめ、ポルトガルへの共同遠征を求めてトルコの私掠船「Mir Ali Bey」に特使を送った。彼は同意し、ソマリア艦隊に参加し、南東アフリカのポルトガルの植民地への攻撃を開始した[9]

ソマリアとオスマン帝国の攻勢は、Pate、モンバサ及びキルワなどの一部の重要都市からポルトガルを追い出すことに成功した。しかし、ポルトガルの知事はポルトガル領インドに大規模なポルトガル艦隊を要請する特使を送った。この要請に応えたことでムスリムのそれまでの攻勢が一転して守勢に逆転した。ポルトガル艦隊は喪失した都市の再奪還に成功し、彼らの指導者達への懲罰を開始したが、インド洋での都市の自治権を保証し、モガディシュへの攻撃を控えた[10][11]。アジュアンのソマリア軍は最終的に軍事的にはポルトガルを敗北させ、オスマン帝国もまたソマリアとの経済的パートナーを維持した[12]。16世紀と17世紀を通じて、ソマリ・スルタンは相次いでインド洋でのポルトガルの経済的独占に反抗し、オスマン帝国の様式に倣った新しい貨幣を採用することでポルトガルに対して経済的独立性の態度を主張した[13]

独立闘争

1950年代から始まった反帝国主義運動は植民地保有国からの独立を扇動した。この扇動は植民地主義に対してますます敵対的になっていた国際制度と相まって、しばしば暴力的なものになった脱植民地化のプロセスで死者をもたらした。

アフリカで最初に成功した反植民地の武力闘争はチュニジア独立戦争 (1952–1956) であるが、最も有名なのはアルジェリア独立戦争 (1954–1962) であり、どちらも対フランスの戦争であった。

成功した他の武力抵抗の例として、ポルトガルの植民地戦争(1961–1974)ではアンゴラ、ギニアビサウ及びモザンビークの独立につながった[14]ローデシア紛争(1966–1979)は植民地本国に対しての武力闘争ではなく、イアン・スミスの少数派白人政権に対しての戦いであった。

これらの国家解放運動はインドネシア独立戦争 (1945–1949) と第一次インドシナ戦争 (1946–1954) で使われたゲリラ戦争のドクトリンに基づいていた。反乱の目的はそのため戦争に勝利することではなく、また植民地軍も今まで敗北したことはなかった。しかし単に敗北はせず、植民地保有国にとって耐えがたいほどの長期間にわたる戦争を行うことであった。

第二次世界大戦の派閥

フランツ・ファノンのアルジェリア紛争についての著作は後のアフリカの紛争に多大な影響を及ぼした。これらの紛争は、内部のイデオロギー的および組織的な結束、世界的なフォーラムでの共感的外交支援(特に北欧諸国からの)財政支援、ソビエト圏からの軍事訓練および供給の恩恵を受けた[14]

事実上の降伏と独立に繋げられず不成功に終わった暴力的な国家解放運動は二件あり、一つはマウマウ団の乱 (1952–1960) である。植民地の治安部隊は首都の正規軍からの増援を受けており、反乱グループは軍事装備と訓練の不足や避難所を提供する近隣の友好国がなかったことが障害となっていた[14]

植民地時代に定められた国境を巡りアフリカ勢力に対する二つの解放運動が起きている。ポリサリオ戦線は1973年に西サハラの独立を求めスペイン、その後北アフリカの国が侵攻してきたときモロッコに対して闘争を始めた。

エリトリアでは、エリトリア解放戦線と後のエリトリア人民解放戦線がエチオピアに対して行った独立闘争は1991年に遂に成功した。

以上の犠牲が多かった戦争と比較してナミビアの南西アフリカ人民機構 (1960s–1990) と、南アフリカのアフリカ民族会議の軍事部門であるウムコントゥ・ウェ・シズウェの活動家は闘争において被害を比較的少なくした。

植民地後

アフリカの国家は長い間国家間の国境の不可侵の尊重について多大な努力を払ってきた。例えば1963年にアフリカ統一機構 (OAU) が設立され (2002年にアフリカ連合に置き換えられた) たが、OAUの憲章では優先するものの一つとして各国家の領土の統一性の尊重を掲げた。実際にヨーロッパ国家の形成と比較して、国境変更する目的での国家間紛争はアフリカでは少なかったことで国家形成に影響を及ぼし、敗北し他国に吸収される可能性のある一部国家も生き残ることができるようになった[15]。未だに国家間の紛争は代理軍または反乱運動の支援によって行われている。以下に挙げる多くの国家がこれまでに内戦を経験している: ルワンダ、スーダン、アンゴラ、シエラレオネ、コンゴ、リベリア、エチオピア及びソマリア

多くの内戦では実際の戦闘は行わないにせよ支援する外国勢力が関与しているため内戦の境界線は曖昧になっている。リビアは積極的にチャドへ空軍の介入を行っており、フランスは一方への支援で報復した。スーダンは長期間の内戦を経験しており、内戦の結果南スーダンが独立国として分裂する事態になった。南スーダンと同様にエリトリアもエチオピアから独立を勝ち取った。コンゴ内戦はジンバブエ、ルワンダ、ウガンダを含む7ヶ国が関与する戦争になった。エリトリアは南ソマリアでの内戦でサポートの役割を担ったとして合同制裁下にある。シエラレオネの内戦は追放されていた文民政権がイギリスとナイジェリア軍により復旧し終結した。アンゴラ内戦はキューバ、アメリカ、中国が異なるグループを支援していた。

地域別のアフリカの軍事史

脚注

関連項目

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