アルベルト・モラヴィア
From Wikipedia, the free encyclopedia
本名:アルベルト・ピンケルレ(Alberto Pincherle)としてローマに生まれる。父カルロはユダヤ人で建築家。母ジーナはアンコーナ出身だが祖先はダルマチア出身。モラヴィアという筆名は、父方の祖母の旧姓に由来する。
7歳のときカリエスを病んだために小学校を中退し、3年間にわたる自宅療養と2年間にわたるコルティーナ・ダンペッツォでのサナトリウム生活を余儀なくされる。病床でドストエフスキーに読み耽ったことから小説を書き始め、1925年、退院の年から処女長篇『無関心な人びと』Gli Indifferenti を執筆。1927年からは『900』誌に短篇を発表し始めた。
1929年に自費出版した『無関心な人びと』がイタリアの読書界に大きな反響を呼ぶ。以後、La Stampa やLa Gazzetta del Popolo などの新聞で活躍。1941年に作家のエルサ・モランテと結婚。
第二次世界大戦中はムッソリーニ政権から作品を禁書に指定され、新聞への執筆を禁じられるなどの弾圧を受け、抗議の意味でPseudo("偽名"を意味する)という変名により執筆を続ける。
戦後はIl Mondo やIl Corriere della Sera などの一流紙で活躍。1952年、短篇集I racconti によりストレーガ賞を受ける。
1962年にエルサ・モランテと別れ、29歳下の作家ダーチャ・マライーニと同棲。この頃モスクワを訪れ、パキスタンの詩人ファイズ・アハマド・ファイズと出会っている。1967年に中国と韓国と日本を訪問。1984年、イタリア共産党から欧州議会の選挙に立候補して当選。1985年、45歳下のカルメン・イェラと結婚。
80歳を過ぎても現役の作家として旺盛な執筆活動を続けたが、1990年、ローマの自宅で入浴中に急死。没後にインタビュー形式の回想記Vita di Moravia(アラン・エルカンと共著『モラヴィア自伝』河出書房新社)が公刊された。
代表作に長編では『軽蔑』、『倦怠』、『1934年』、『ローマ物語』などがある。短編集も多く訳されており、大久保昭男、河島英昭[1]、千種堅[2]らが訳・紹介している。