アルベルト・リエラ
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ガラタサライ時代(2012年) | ||||||
| 名前 | ||||||
| 本名 |
アルベルト・リエラ・オルテガ Albert Riera Ortega | |||||
| ラテン文字 | Albert RIERA | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1982年4月15日(43歳) | |||||
| 出身地 | マナコル | |||||
| 身長 | 188cm | |||||
| 体重 | 77kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF (LWG, LMF) | |||||
| 利き足 | 左足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1999-2000 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 2000-2002 |
| 54 | (12) | |||
| 2001-2003 |
| 46 | (6) | |||
| 2003-2005 |
| 53 | (4) | |||
| 2005-2008 |
| 72 | (8) | |||
| 2006 |
→ | 15 | (1) | |||
| 2008-2010 |
| 40 | (3) | |||
| 2010-2011 |
| 26 | (6) | |||
| 2011-2014 |
| 60 | (3) | |||
| 2014 |
| 8 | (1) | |||
| 2014 |
| 0 | (0) | |||
| 2015 |
| 6 | (0) | |||
| 2015 |
| 12 | (1) | |||
| 2016 |
| 1 | (0) | |||
| 通算 | 393 | (45) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 2000–2001 |
| 11 | (0) | |||
| 2002–2003 |
| 15 | (2) | |||
| 2007-2009 |
| 16 | (4) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2022-2023 |
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| 2023 |
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| 2023-2024 |
| |||||
| 2024-2026 |
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| 2026- |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
アルベルト・リエラ・オルテガ(Albert Riera Ortega, 1982年4月15日 - )は、スペイン・マナコル出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。
弟のオリオール・リエラも選手。
クラブ
マジョルカ
マヨルカ島第二の都市マナコルに生まれた[1]。物心がつく前からボールを蹴り始め、14歳でRCDマジョルカにスカウトされて毎日50kmの道のりを練習のために往復した[1]。17歳でプロ契約し、憧れの選手だったヨヴァン・スタンコヴィッチが移籍して空いた左サイドハーフのポジションを受け継いだ[1]。
2001年2月25日のラシン・サンタンデール戦でルイス・アラゴネス監督に抜擢されてデビューを果たし、リーグ戦をクラブ史上最高の3位で終えたチームで3試合に出場して1得点した。2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグに初出場した。デビュー後の1シーズン半で11試合しか出場することができなかったが、2002-03シーズンはグレゴリオ・マンサーノ監督の下でレギュラーポジションを確固たるものとし、リーグ戦では35試合に出場して4得点した。このシーズン、レオ・フランコ、アリエル・イバガサ、ワルテル・パンディアーニ、サミュエル・エトオなど質の高い選手が揃ったクラブはコパ・デル・レイで優勝した。
ボルドー
自身はマジョルカ残留を希望したが、チームの財政事情により2003年8月1日にフランスのFCジロンダン・ボルドーに移籍した[2]。リエラのことを「スペインの星」と評したエリ・ボー監督の下で2003-04シーズン、2004-05シーズンとレギュラーを務め、2シーズンでリーグ戦53試合出場4得点、UEFAカップでは5試合出場5得点という成績を残した[1]。
エスパニョール
2005年8月20日にはRCDエスパニョールに4年契約で移籍して母国に復帰したが[3]、ミゲル・アンヘル・ロティーナ監督が指揮していた同クラブでは出場機会に恵まれず、2005-06シーズン前半戦の出場は8試合にとどまった。2006年1月5日の移籍市場でイングランドのマンチェスター・シティFCにレンタル移籍すると[4]、2月1日のニューカッスル・ユナイテッドFC戦で初得点を決め[5]、15試合に出場して1得点とまずまずの結果を残したが、買い取りオプションは行使されず、シーズン終了後にエスパニョールに戻った[1]。
2006-07シーズンのエスパニョールはUEFAカップで快進撃を続け、スコットランド・グラスゴーのハムデン・パークで行われる決勝進出を決めた。決勝の相手は同じスペインのセビージャFCであり、自身は試合を1-1に持ち込む同点弾を決めたがPK戦(1-3)の末に敗れた[6]。シーズン終了後にはクラブとの契約を2011年まで延長した。
リヴァプール

移籍市場最終日の2008年9月1日、移籍金800万ポンド[7]でリヴァプールFCと4年契約を結んだ[8]。背番号11を着けて13節のマンチェスター・ユナイテッドFC戦(ホーム)でデビューし、72分間出場して2-1で勝利を収めた。10月18日のウィガン・アスレティックFC戦で移籍後初ゴールを決め[9]、12月9日にはUEFAチャンピオンズリーグのPSVアイントホーフェン戦(3-1で勝利)でも得点した[10]。2009年に入るとFAカップ3回戦のプレストン・ノース・エンドFC戦などでゴールを決め[11]、ホームで5-0と大勝した3月22日のアストン・ヴィラFC戦ではペペ・レイナのパントキックを左足のハーフボレーシュートで直接決めた[12]。
2010年3月18日、出場機会の少なさや同胞のラファエル・ベニテス監督のコミュニケーション方法批判とも取れる発言をスペインメディアに行ったため[13]、トップチームでの出場機会を失って放出要員となり、ロシアのPFC CSKAモスクワやFCスパルタク・モスクワへの移籍が噂された[14]。3月23日にはCSKAモスクワから移籍金600万ポンドのオファーを受けたと報道されたが[15]、それは結果的に誤りであり、CSKAモスクワが公式に否定し[16]、代理人のアンヘル・カステジェスは「オファーはスパルタク・モスクワからしかない」と明言した。
オリンピアコス
2010年7月23日、エスパニョール時代の恩師エルネスト・バルベルデが新監督に就任したギリシャのオリンピアコスFCに4年契約で移籍した。移籍金は約400万ユーロ[17]。
ガラタサライ
2011年9月3日、トルコのガラタサライSKに4年契約で移籍した。移籍金は300万ユーロ[18]。
ウディネーゼ
2014年1月28日、ガラタサライと契約解除、2月20日にレキップがウクライナ・プレミアリーグのFCメタリスト・ハルキウに加入したと報じたが実現しなかった[19]。
3月24日、セリエAのウディネーゼ・カルチョに2014-15シーズンから加入することが決定[20]、3月27日にシーズン終了までワトフォードFCにレンタル移籍した[21]。
シーズン終了後にウディネーゼに復帰したが、1試合も出場できず、11月27日に契約を解除した[22]。
マジョルカ復帰以降
2015年3月5日、自身がキャリアをスタートさせたクラブであるRCDマジョルカに復帰した[23]。しかしミケル・ソレール監督との対立により半年で退団し、1.SNLのNKザヴルチへ移籍[24]。2016年1月22日にクラブとの契約が満了し[25]、同26日にFCコペルへ加入した[26]。
スペイン代表
2007年10月13日、EURO2008予選のデンマーク戦(アウェー)で68分にホアキン・サンチェスに代わってスペイン代表デビューし、エリア外から代表初ゴールを決めて3-1での勝利に貢献した[27]。その後数試合に出場したが、本大会メンバーからは落選した。監督がルイス・アラゴネスからビセンテ・デル・ボスケに交代して迎えた2008年10月、セビージャFCのディエゴ・カペルが負傷中であったために代表に招集され、2010 FIFAワールドカップ欧州予選のエストニア戦に11分間出場した。2009年4月1日、トルコ戦でアディショナルタイムに2-1となる決勝点を挙げた[28]。同年にはFIFAコンフェデレーションズカップ2009のメンバーにも選ばれ、3位になったチームで4試合に出場した。スペイン代表が初優勝を果たした2010 FIFAワールドカップ本大会出場メンバーからは外れた。
指導者
引退後は指導者の道に進み、2022年7月4日にNKオリンピア・リュブリャナの監督に就任した[29]。その後NKツェリェの監督に就任し、2023年7月から10月までの3カ月間指揮。
2023年よりFCジロンダン・ボルドーの監督に就任したが、2024年7月25日にボルドーが破産申請したことで監督契約が失効した。
2024年7月に再びツェリェの監督に就任。就任1年目で国内カップ戦を制覇し、2025-26シーズンも2位に12ポイント差をつける独走状態で首位へ導いた。
2026年1月30日、アイントラハト・フランクフルトの監督に就任。契約期間は2028年6月30日までとなる[30]。